毛利元就
室町時代後期から戦国時代にかけて、活躍した戦国大名。
安芸(広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと評されるに至る。
用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。
出生
1497年、安芸の国人領主・毛利弘元の次男として鈴尾城(安芸高田市)で誕生したと言われる。
兄・毛利興元が家督を継ぎ、1506年に父・弘元が死去すると、そのまま多治比猿掛城に住んでいたが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。
その哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。
1511年に元服し、分家を立て、多治比(丹比)元就を名乗るようになる。多治比(「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む)殿と呼ばれるようになった。
1516年に兄・興元が亡くなり、その子・幸松丸が跡を継ぐも幼少のため、元就が後見人として家中を主導した。
西国の桶狭間
毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に動揺した毛利家に、佐東銀山城主・武田元繁が侵攻。
武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として出陣します。
元就にとって初陣でしたが、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死します。
武田元繁はその報に怒り、毛利軍と激突します。
戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。
この戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、毛利氏の勢力拡大の分岐点になった。
また、この勝利によって「毛利元就」の名が世に知られるようになる。
その後、鏡山城の戦いでも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。
甥の毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就が27歳で家督を継ぐことになった。
元就の家督継承に不満を持った坂氏などの有力家臣団の一部が元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。
事件はこれで治まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。
元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。
驚いた元就は児玉就忠を遣わして説得したが、桂元澄は応じなかったため、元就自らが桂城に単身乗り込み、元澄を説得して許したという。
勢力拡大
1529年に外戚で強大な権力を持っていた高橋氏一族を討伐。
高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。
1535年には、隣国の備後の多賀山城の多賀山如意を攻め、降伏させた。
一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。
宍戸氏と誼を結ぶことで周防国守護の山内氏とも繋がりができた。
その他、天野氏や、熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。
1533年、周防国守護の大内家を通じて朝廷に4,000疋を献上し、毛利の先祖同様の従五位下右馬頭に叙任されることに成功している。
当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。
1537年には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。
1539年には、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。当主の武田信実が逃亡しています。
しかし、翌年、尼子氏が3万の軍勢を率いて、毛利家の本拠地・吉田郡山城を攻撃。
元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。
家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となっていきます。
同年、再度武田軍の銀山城を攻めこれを攻略します。この時、元就は夜間に火を点けた草鞋千足を太田川に流し、佐東銀山城に籠る武田氏に動揺を与えたという伝承がある。
この戦いで安芸武田氏は滅亡します。
1542年に大内義隆を総大将とした尼子氏に対する第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし、大敗。
大内氏、尼子氏がこの戦いで安芸国内における影響力が低下し、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場の脱却を目指すようになる。
毛利水軍
1544年、強力な水軍を持つ竹原小早川氏に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を養子に出し、水軍の取り込みにかかった。
竹原小早川氏に対しては、尼子派の山名氏に攻められた際に、大内軍と共に毛利軍も援軍に駆けつけている。
その戦いの最中、徳寿丸は元服して小早川隆景を名乗るようになった。
毛利元就隠居
。1546年、元就が隠居を表明して毛利隆元が毛利家当主となるが実権は元就が握ったままだった。
1547年には、妻の実家である吉川家に元春を送りこむ。
当時吉川家当主であった吉川興経は、家中の統制ができなくなっていた。
そこで吉川家の養子になった元春に家督を継がす為に、吉川家の家臣団は現当主を隠居させ、元春を当主に据えた。
小早川隆景を送りこんだ小早川家も小早川現当主を出家に追い込み、隆景を当主に据えることに成功し、小早川氏の水軍を手に入れた。
これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。
厳島の戦い
1551年、周防・長門などの大名・大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される。
元就は以前からこの当主交代に同意しており、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。
隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。
元就はこれを背景として、徐々に勢力を拡大して行く。
安芸頭崎城を陥落させ、平賀家を傘下に治めると、尼子晴久の安芸への侵入を撃退した。
この毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。
元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。
そこに石見の吉見氏が陶隆房に反旗を翻した。
陶隆房は元就に援軍の依頼を出したが、陶が安芸の国人衆達にも出陣の催促を出していた。これは、毛利に安芸の権限を与えるという約束に反しており、息子・隆元が陶隆房に不信感を持っていたこともあり、陶隆房との対決を決意した。
しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000〜5,000であった。
正面から戦えば勝算は無い。
そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。
1554年、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。
そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。
晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000の兵を預け毛利氏攻撃を命令。
元就はこれを撃破したが、今度は陶晴賢自身が大軍を率いて厳島で対峙した。
厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。
大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。
1556年に石見銀山を尼子晴久に取られるも、1557年に、大内氏の当主義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。
これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。
1558年、石見銀山を取り戻すべく毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃し、落城させるも続く山吹城を攻めあぐね、撤退中に奇襲を受け尼子晴久にまたもや大敗している。
尼子氏・大友氏との戦い
1560年に尼子家の当主・尼子晴久が死去すると、1562年に出雲侵攻を開始する。
跡を継いだ尼子義久は毛利軍を迎え撃つも、元就は白鹿城を攻略し、難攻不落の名城・月山富田城を包囲して兵糧攻めにもちこむことに成功する。
それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。
これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。
この段階に至って元就は、粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。
1566年、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。
こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大大名にのし上がったのである。
稀代の謀将の最期
1560年代の前半より元就は度々体調を崩していた。1571年に、つぃに吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。
三本の矢
死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。
元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。
息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたという話である。
家臣・周辺国人への気遣い
元就は、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。
その際、家来が酒が欲しいと言えば「普段から酒ほど気晴らしになることはない」と差し出し、下戸だと言えば「酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」といって餅を振る舞っていた。
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