北方領土
日本の領土で、北海道の東北部にある歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島(色丹島および歯舞諸島は北海道の一部)の4島が有名ですが、樺太の南半分と千島列島はカムチャッカ半島の手前にある占守島までの千島列島の全部を指します。
少なくとも2010年までは、札幌国税局根室税務署の課税台帳には、日本の領土としての記述がありました。
しかし、民主党政権時代、国民に何も知らせることなく南千島から先の中部千島、北千島の島々を帳簿から削除されました。
このサイトでは、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を北方領土、北方4島と書きます。
南樺太などの領土について
後述しますが、日本はサンフランシスコ講和条約で、樺太や北千島(北方4島以外)のすべての権利を放棄しました。
日本は、それらの領土の処分権を連合国に委ねましたが、連合国は北方領土の処分先を決めていません。
ロシアが実効支配していますが、サンフランシスコ講和条約にはロシアは入っていません。
なので、連合国が領土の処分先を決めるまでは、日本の領土のままと考えるのが普通です。
ちなみに軍事占領しただけでは、その土地は占領した国のものにはなりません。
例えば、イラクのフセイン政権を倒したアメリカはイラクを軍事占領しましたが、イラクはアメリカのものではありません。
条約などがあって初めて、その国のものになります。
日本とロシアの間にも、連合国とロシアの間にも南樺太などの領土に関する取り決めは一切ありません。
北方領土の歴史
日本が千島列島を領土としたのは大変古く、1635年に北海道の松前藩が樺太調査を行っており、その後の1644年の『正保御国絵図』には、松前藩が支配している蝦夷地として樺太や千島列島が載っている。
1700年には、北海道の松前藩が「全千島列島」を藩の知行地として幕府に届け出ています。
その後、ロシアの囚人たちが北千島に乱入してきたり、日本とロシアとの間で様々なトラブルがあり、1855年、日本とロシアとの間で、「日露和親条約」が締結されました。
この条約によって、南千島(北方4島)を日本領、それ以北(中部千島、北千島)をロシア領とすることが定められました。
要するに、北方4島は日本のものと確定したということです。
ところが日露和親条約で、「樺太は日露混在の島」と、曖昧な取り決めをしたため、1856年のクリミア戦争後、大量のロシア人が樺太に入り込み、日本人との間でトラブルが頻発するようになりました。
そこで、1875年に榎本武揚が特命全権大使としてロシアに赴き、「日本は樺太を放棄する」「代わりに千島列島を全部日本領とする」という「樺太千島交換条約」(サンクトペテルブルグ条約)をロシアとの間で締結します。
その後、1904年に日露戦争が勃発し、日本が勝利。日本とロシアとの間で、樺太の南半分を譲り受ける条約(ポーツマス条約)を結んでいます。
国際的には
2005年にEUが議会で「日本の北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議」を採択しています。また、 アメリカも北方4島における日本の主権を認めています。
ロシアの不法占拠
日本が降伏する4日前の8月11日にソ連軍が日本領の南樺太に侵攻してきます。これは1946年4月まで残っていた日ソ中立条約を破るものでした。
8月14日に日本はポツダム宣言受諾を通告します。
しかし、その後も8月25日に南樺太を占領。
9月3日から5日にかけて、降伏して武器を捨てている北方4島を武力で占領します。
占守島では、8月18日から23日にかけて、侵攻して来たソ連軍と戦車などを解体して武装解除途中の日本軍と交戦します。戦車などを組み立て直し、日本軍が勝利します。
この勝利がなければ、北海道までソ連軍が占拠するつもりだったらしく、戦後は朝鮮半島の様に日本が二つに分けられていた可能性は高い。
占守島の戦い
日本を守った英雄達
前述していますが、この戦いで日本軍が勝利しなければ、北海道までソ連軍が来て、日本の北海道は未だにロシア領だった可能性は高い。
しかし、この島を守っていた池田隊長始め、第91師団は日本を守った英雄として称えられるどころか、左よりの人達によってこの戦いを「無駄な戦い」、「戦死者は犬死に」と一蹴しています。残念でなりません。
ソ連軍がこの島に攻撃を仕掛けてきた8月18日は、日本が連合国に降伏して武装解除の準備をしていた時でした。
戦車部隊でも、車載銃砲や無線機の取り外しに始まり、爆砕や車両を海に沈めるなどの準備を進めていました。
そんな状態で疲れて寝静まっていた午前1時に突如攻撃が始まります。
戦争は終わったと思っていた第91師団は初め誰が攻撃して来たか分からなかったそうです。
しかし、放置すると皆殺しになってしまうと判断した第91師団は女性400人を北海道に逃がし、自分たちは戦いを選択します。
第91師団には、満州から転進した精鋭部隊の「士魂戦車隊」(戦車第11連隊)がいました。
率いるのは「戦車隊の神様」と呼ばれた池田末男少将(当時は大佐)です。
ソ連に攻められる前の晩は若い将校に「15日以降、俺は廃人になった。お前たち若いものは国へ帰って新しい国民を教育しろよ」などと話していたそうです。
攻めてきたソ連軍は、駆逐艦2隻、6千トン級の輸送船4隻、兵力13,000千人という、まさに海を覆わんばかりの大部隊です。
対する日本軍は武装解除途中の日本兵8,500人です。
当初、報告を聞いた師団参謀は、国籍不明といっても米軍だと思ったそうです。
後に相手がソ連とわかった時はびっくりしたそうです。
精鋭の戦車連隊は武装を分解中ですぐには出撃出来ない状態です。
それでも総員総出で武装を取り付け出撃しています。
池田隊長は自分の隊士たちに「玉砕して白虎隊になるか、一旦自重して後日再起をかける赤穂浪士になるか」と聞いたそうです。全員一致して、白虎隊になることを選択したと言われます。
ソ連軍との肉弾戦はおよそ40分にわたるものだったそうです。
普通、近代戦において銃撃戦というのは1〜2分程度で、5分も続けば長かったと言われる。
それが、40分です。いかに凄まじい戦いであったか分かります。
その戦いで池田隊長始め、96人が戦死しています。
池田隊長の最後は、対戦車銃を受け炎上しても、さらにしばらく前進して敵に向かっていたそうです。
戦いは4日続き、日本軍の勝利に終わります。
日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名でした。
ソ連軍は占守島を1日で落とす予定でした。4日伸びたことで、アメリカ軍が北海道に入り、結果的に北海道がソ連軍の手に落ちるのを防ぐことに成功しています。
当時のソ連政府機関紙「イズベスチャ」は、占守島の戦いについて、次のように書いています。
「占守島の戦いは、大陸におけるどの戦闘よりはるかに損害が甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である。」
大功ある第91師団は、この戦いの後、ソ連に日本本土に帰還させると騙されて、シベリアに強制連行されました。
島民25,000人とともに強制連行され、何故かシベリアに着いたのは5000人です。
(途中理由なく殺されたと言われる)
そして、シベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、約1割がお亡くなりになりました。
日本を守った英雄達に対するあまりにも酷い現実と共に、北方4島は未だにロシアに不法占拠されたままである。
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