高志国

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高志国

古代に北陸に存在した国のことである。
「古事記」には、高志国と書かれているが、『出雲国風土記』には古志国とあり、日本書紀は越国と書かれている。

その後、越後、越中、能登、越前に分かれることになる。

当時、鳥取県や島根県辺りに存在した古代出雲国が大軍を率いて高志国に攻め入ったが、高志国はこれを恐れて国を出雲に明け渡したとされる。

その後、大和朝廷が大彦命(第8代・孝元天皇の子)などを派遣して高志国を古代出雲国から奪い取ったと言われている。

しかし、大和政権は出雲系の神々の信仰を尊重して残したため、現在も越中の古い神社は出雲の神々を祭神としている。

三種の神器の一つ「天叢雲剣」

「草薙の剣」

「天叢雲剣」は、「草薙の剣」のことである。
出雲国の「スサノオノミコト」が高志国に存在した「ヤマタノオロチ」の尾を切り裂いた時に出てきた宝剣と言われる。

当時、出雲と高志国(越国)は交戦状態にあり、『出雲国風土記』には、「越の八口」の平定の記載があるため、出雲と高志国の勢力争いをヤマタノオロチ神話の原型や土台とする説がある。
福井県には九頭竜川など名称や地名が残っている為、信ぴょう性は高い。

また、三種の神器の一つである「八尺瓊勾玉」の翡翠も高志国で取れたものであるという説もある。

阿彦

古代越国を支配していた最大勢力を誇る豪族。「高志の国王」を名乗っていた。

阿彦は、富山湾の海上に強大な勢力を張っていた布勢の神「倉稲魂命(うげのみたま)」の子孫である「布勢比古」なる人物の子供か孫だと伝えられています。

大和朝廷の大彦命によって、越国が平定され、大和朝廷の手刀摺彦に統治を任せますが、越国の他の豪族は重く用いられますが阿彦は重く用いられませんでした。
これに阿彦は激怒して、抵抗を続けます。

阿彦の一族は、以前から日本海の対岸、支那大陸の事情に精通していたようで、特に阿彦の代になってからは大陸の勝れた物質文明を積極的に取り入れた他に、大陸的な専政君主政治を採用していました。
阿彦は、ツングース人である鄭鶴(ていかく)、徐章(じょしょう)という2人の人物を重く用いて、それらの政治を行っていました。

阿彦は一般の婦女子にも民衆にも極めて親切で、しかも厳正な政治を行ったので、人々は次第に新しい政治に馴れると共にその長所を悟り、喜んで彼に従う様になったので、阿彦の勢力は急速に拡張増大して行きます。

阿彦の乱

手刀摺彦等に抵抗を続ける阿彦のもとに、王権に不満を抱く豪族や内通する者が集まってきます。

そして、大和朝廷側の手刀摺彦等に攻めかかります。阿彦はこの奇襲攻撃により、手刀摺彦の「中央城」や「辰城」、「辻城」などの領域を除いた東部平野を手中に収め、西部平野への侵攻を企て、砺波郡枯山に堅固な堡を築き、近辺の山野を支配します。

手刀摺彦の副将である甲良彦舅は、阿彦の築いた枯山の堡を攻め、犬攻めや落石攻めなどによって敵将を討ち取ったりしますが、堡を破ることに失敗します。

この枯山の堡は、砺波市 の鬼ヶ城(別名:浅野谷城、安川城)ではないかと言われています。

阿彦征伐

この反乱を受けて、大和朝廷から大若子命が阿彦征伐に乗り出します。
この戦いは長引き3年近く続きます。

長く戦争が続いたことを、大若子命は憂っていると姉倉姫(この時代よりはるか昔の高志出身の女神)の神託があったと言われています。

その神託に従って、宮社を造営し祈願を行ない、討伐軍を再編成し、枯山の堡を攻めます。
そして、ようやく阿彦を討ち取ることに成功します。

大若子命は、姉倉姫の神徳を末長く顕彰するため社殿を造営するとともに、大竹野の北方神通川沿いの地(富山市八幡)に大己貴命(大国主ノ神)を祀る越中一宮を造営したと言われています。

阿彦の名残

我孫子、吾孫子、阿孫子、亜孫子、安彦、阿比古、吾彦、我子などは「阿彦」の当て字と言われています。
千葉県の我孫子市のほかにも大阪市住吉区我孫子、同泉大津市我孫子、奈良県橿原市我孫子、福岡県直方市我孫子、埼玉県羽生市我孫子など様々な地名にも使われています。

ヌナカワヒメ

ヌナカワヒメへの求婚

大国主は日本の国土を開拓して、農業・医療・商業を普及した神であるとされており、天照大御神に国を譲って、出雲大社に祭られた神として有名です。

その大国主は、高志国にヌナカワヒメという賢く美しい女性がいるという噂を聞きつけます。

正妻のスセリヒメがいるにも関わらず、ヌナカワヒメを嫁にしたいと考えた大国主は沢山の家来を引き連れて、高志国を訪れます。

しかし、大国主が何度ヌナカワヒメの舘を訪ねても、ヌナカワヒメは門を開いてくれません。

大国主は八千矛神(ヤチホコノカミ)という別名を持っていたのですが、その大国主がヌナカワヒメに次のような歌で想いを伝えます。

「ヤチホコノカミと呼ばれる私は広い日本のあちらこちらに妻を探し、遠い越の国まで訪ねてきました。この地に賢い美しい女性がいると聞いて、足しげく通い、求婚してきました。

太刀の緒も解かないまま、はおった上着も脱がないまま、乙女の寝ている舘の板戸をひたすらゆすぶって私は立ちすくんでいる。

すると緑深い山ではぬえが鳴き雉が鳴き鶏が鳴き、朝となりました。いまいましくも鳴く鳥です。いっそわが使いに命じてこれらの鳥を打ち殺してしまいたい。」

すると、舘の中からヌナカワヒメがやはり歌で答えます。

「ヤチホコノカミと呼ばれるあなた、私はか弱い女ですから入り江にいる水鳥のようにお互いに想いあえる殿方を強く求めております。

今でこそ私はこのようにあなたを無下に扱っていますけど、後にはあなたになびくこともあるでしょう。
だからお使いの方、その鳥を打ち殺したりなさらないで。緑深い山の陰に日が隠れて、真暗な夜になってから会いにいらしてください。

その時あなたは朝日のような笑みを満面にたたえ真白き私の腕を抱いて、若々しい胸を抱いてぎゅっと抱きしめて私の玉のように美しい腕で腕枕をして、のびのびと足をのばしておくつろぎになってください。

だから、どうか今夜は、そんなむやみに恋心を燃やしてくださいますな。ヤチホコノカミとよばれるあなた」

ヌナカワヒメの歌を受けて、オオクニヌシノミコトはその夜は我慢して次の夜にヌナカワヒメを訪ねていき、ご結婚なさいました。

その後、正妻・スメリヒメのヤキモチへと続いて行きます。

ちなみに御穂須須美命(ミホススミ)がヌナカワヒメと大国主の子供と言われています。

「越(こし)」、「高志」、「古志」にちなんだ名前

「コシヒカリ」(お米)、「越乃寒梅」(日本酒)、「古志神社」(富山県下新川郡朝日町)、「古志郡」(新潟県中越地方)などである。また、福井市には「高志」の地区名と名称が残っており多用されている。

出雲国古志郷(現・出雲市古志町・下古志町)

出雲国にあった古志郷の地名の由来は、古志の国の人たちが来て、堤を造ったが、その後そのまま住み着いたので古志と呼ぶようになったというものだそうです。

戦国時代の備後古志氏は広島県福山市の新庄と呼ばれた地域を支配した領主であるが、出雲古志氏の子孫で、古志吉信(毛利家)、古志重信(尼子家)などの武将を輩出している。

毛利氏に従ったが、関ヶ原の合戦で毛利が負けた際、削封されて萩に移ったが、それに従わなかった為に武士としての歴史を終えた。

子孫は、千葉県に住んでおり、古文書(古志家文書)を保管していました(1999年に出雲市に寄贈)。

それによると歴代の当主は、京極氏や尼子氏などの領主権力や杵築大社(出雲大社)などと密接な関係を結び、出雲国の歴史に重要な役割を果たしています。


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