北条早雲


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北条早雲

戦国時代初期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。

出自

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とされてきたが、最近の研究では備中荏原荘(現岡山県井原市)で荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であったことがほぼ確定している。
早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。

早雲はその父と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。
後北条氏の重臣である大道寺氏や内藤氏も備中から出ている。

駿河下向

早雲が下向した原因は駿河・今川氏にある。
今川氏は足利一族であり、足利尊氏に属して戦功をあげ、駿河・遠江の守護職になった家柄であるから、一貫して足利の忠実な部将の一人であった。

その当主の今川義忠が討死し、義忠の室・北川の生んだ竜王丸(氏親)はわずか6歳。竜王丸が幼少のためお家騒動がもち上がり、朝比奈氏などが一族の小鹿範満を擁立して二派にわかれて争い、家臣団も分裂。そのために竜王丸は母・北川と駿府をのがれて身をかくした。

このお家騒動に調停役として竜王丸の母・北川の縁者として早雲が浮上したのである。

そして、早雲みずから竜王丸の後見人になるとともに、反目し合っている家老たちを説得し、妥協案を出して紛争をみごとに解決したという。

その後、京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。

1487年、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。

龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。

早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられた。
このとき早雲は、6人の部下を連れている。荒木兵庫、多目権兵衛、山中才四郎、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛の6人だが、伊勢にいたとき知り合った友人で、早雲の志を聞いて、ともに下って来た者たちという。この6人が心を合わせて早雲を助け、北条氏の基礎を築いて行くことになる。

伊豆討入り

伊豆を支配していたを支配していた足利政知が没すると長男の茶々丸が異母兄弟の潤童子とその母・円満院を殺害して、強引に跡を継いだ。

同じく異母兄弟であった足利義澄が将軍に就任すると、母・円満院と兄弟の潤童子の敵を討つため、茶々丸の近隣に城を持つ早雲に敵討ちを命じた。

これを受けて早雲は、伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。
このとき伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らは早雲にいち早く参じたとされる。この事件を伊豆討入りといい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられている。

早雲は伊豆国の統治を始め、高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。
また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の小領主や領民はたちまち早雲に従った。

そして、それまでの重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定されたと言われる。

伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、1494年頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。
早雲と今川氏親は連携して領国を拡大していく。

小田原城奪取

早雲は相模の大森藤頼にたびたび進物を送るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子(獣を追い出す役割の人)を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。
早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。

その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。

数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたと言われている。

今川氏の武将としての活動も続き、1501年から1504年には三河にまで進んでいる。

相模平定

その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出す。
早雲と今川氏親は、徐々に相模に勢力を拡大していった。

1509年以降は、早雲は今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する。

江戸城にいた上杉顕定(扇谷上杉家)が大軍を率いて越後に出陣すると、この隙を突いて早雲は江戸城に迫った。
江戸城の当主上杉朝良は上野に出陣していたが、兵を返して早雲に反撃。

1510年まで、早雲と武蔵、相模で戦った。
早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷上杉家との和睦で切り抜けた。

大軍を率いて越後に出陣していた上杉顕定は、長尾為景の逆襲を受けて敗死している。

その後、早雲は、扇谷上杉家に属し相模で大きな力を持っている三浦義同と戦った。

三浦氏の岡崎城を攻略し、三浦義同を住吉城に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は三崎城に逃げ込んだ。

早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。
扇谷上杉軍が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破。

さらに三浦氏を攻略するため、鎌倉に玉縄城を築いた。

1516年、扇谷上杉軍が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、三浦義同の篭る三崎城に攻め寄せた。激戦の末に三浦義同は討ち死にする。

名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した。

その後、早雲は房総半島に渡り、1517年まで転戦している。

1518年、家督を嫡男・北条氏綱に譲り、翌年に死去した。

早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。

エピソード1

『北条記』『名将言行録』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎(重時)、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている。

エピソード2

伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。


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