琉球王国
1429年から1879年の450年もの間、沖縄本島を中心に存在した誇り高き王国。勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万人に満たない小さな王国でした。
琉球には元々「山南」「中山」「山北」と3つの国があったが、「中山」が「山南」「山北」を滅ぼして統一。琉球王の正式な称号は「琉球国中山王」。
1609年に島津藩の侵攻を受けて以降は、島津藩の支配下に入った。しかし、対外的には独立した王国として存在し、独自の文化を築き上げた。
琉球王国の始祖
真偽は不明だが、琉球王国の正史では12世紀に源為朝が沖縄県の地に逃れ、その子供が琉球王家の始祖・舜天になったとされる。源為朝の上陸の碑も建てられている。
源為朝は日本で初めて切腹をしたことで有名だが、その為朝が保元の乱で伊豆に流刑となったが、その途上船が嵐に逢い、沖縄本島の今帰仁に漂着して豪族となった、というものである。
そして、地の豪族大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(後の舜天)と名付ける。
そして、その尊敦が中山王となったと言われる。
為朝自身は妻子を連れて大島へ戻ろうとして出航したが、まもなく台風が起こった。
舟人たちの迷信で「女が乗っているので、竜神の怒りを買ったのだ」と言い出す。やむなく為朝は妻子を浦添という処に残し、単身大島に戻っていったと伝わっている。
薩摩による琉球侵攻
琉球王国は16世紀の秀吉の明への遠征時にも、日本軍に食料を提供し、兵站の一部を賄っています。
そして1609年に、薩摩藩が3000名の兵を率いて琉球王国の奄美大島に進軍。
さらに沖縄本島に上陸し、首里城にまで進軍した。
琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。
尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城。島津軍が首里城について、5日間の出来事だった。
それ以降、琉球王国は島津藩の属国となったが、支那にも朝貢を続け、両属という体制をとりながらも対外的には独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。
末期の琉球王国
東シナ海の中継貿易の中心の1つとして東南アジアなどとも貿易をして栄えていたが、16世紀に支那が支那人とアジア諸国(日本以外)との交易を認め出したことで大打撃を受ける。
大航海時代にヨーロッパ諸国が東シナ海に進出すると、さらに市場を失った。
その上、日本が戦国時代に東南アジアに進出し、日本人町を形成するほど貿易の中心となり、琉球の貿易は衰退した。
その後、日本が鎖国政策を行うと、薩摩藩が属国である琉球を使って貿易をした為に、命脈を保った。
しかし、19世紀には日本の開港5港や香港に貿易の中心が移り、琉球の貿易はほぼ失われた。
琉球の民衆は土地の所有が認められておらず、農業生産性も低く、税金が極めて高かった為に、貧しい生活を強いられていた。
台湾問題と琉球処分
琉球は元々「中国の属国」「日本の属国」と云う2つの国への二重属国という複雑な状況にありました。中国への属国は「形式的なもの」、日本への属国は「直接、日本が支配」との体制です。
そこに台湾事件が起きます。
台湾事件とは、台湾に漂流した琉球国人を台湾人が虐殺した事件です。
日本側は「琉球は日本属国であるから、台湾に軍事的制裁を与える姿勢」を示しましたが、中国側は「琉球は自国では無いので問題視しない見解」を示し、国際法的にも中国は琉球を放棄しています。
日本はこの問題を巧みに使い、琉球処分を行います。
これにより琉球国は、対外的にも日本国の一部になりました。
琉球国自身は王朝役人の中には中国寄りの人も何人かいましたが、琉球王国の腐敗政治による苛烈な税に苦しめられていた民衆は、琉球王国を支持せず、琉球処分を自然と受け入れています。(反乱などなく、むしろ支持されていたみたいです。)
支那は琉球処分について抗議はあったが、外交交渉の過程で、支那への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。
なぜ併合でなく「処分」なのか
琉球処分は、琉球王国の日本国への併合という意味で使われることが多いが(このサイトもその様な使い方をしている所もある)、実質的には江戸時代初期の薩摩藩の琉球征伐の際に琉球王国は併合されています。
しかし日本は鎖国政策を行った為、支那との交易を望む薩摩藩は支那へ朝貢をしている琉球王国の立場を利用して交易を続けました。
王国をつぶさず、属国である琉球王国の支那への朝貢を許していたのもその為です。
つまり、琉球の民などは島津藩主の命令に従い、島津藩の領民と同じ立場でした。
琉球処分は、琉球王国の併合ではなく、江戸時代初期に既に併合していた琉球王国に残していた王族の身分的特権階級を最終的になくしたという政策です。
明治時代の武士の特権階級をなくした「秩禄処分」と同じようなニュアンスです。
なので、強制的な琉球王国の日本への併合と言うのは左寄りの人達の自虐史観の一貫である。
誇り高き琉球人
1515年にポルトガル人のトメ・ピレスは当時の琉球人の気質について書いている。
それによると「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。レキオ人(琉球人のこと)は偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い。」と記してある。
琉球王国の文化
琉球舞踊
琉球舞踊は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「御冠船踊り」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の舞踊と区別する意味で、古典舞踊とも言う。古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。
琉球神道
古来より琉球にはアニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教があった。
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