織田信長


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織田信長

戦国の異端児

信長は戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名。豊臣秀吉、徳川家康と共に、三英傑と呼ばれる。

織田氏の中では庶流であったが、父の代から主家を凌ぐ力をつけ、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ってから飛躍。
足利義昭を奉じて上洛すると、後にはこれを追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立した。

他の有力な大名を抑えて戦国時代の終焉に道筋をつけた最大の功労者である。

しかし1582年、天下統一を目前にして重臣明智光秀の謀反を許し、本能寺で自害を迫られた。
すでに家督を譲っていた後継者信忠も同日に二条城で没し、彼の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。

出生

尾張の大うつけ者

1534年、勝幡城(愛西市)で生まれたと言われている。幼名は吉法師。

信長の織田家は、もともと福井県の剣神社の神官をしていた家系だったが、尾張国・越前国の守護大名・斯波氏に見いだされ、家臣として尾張に送りこまれた清州織田家の分家かつ家臣で古渡城主という家系でした。

幼少から青年期にかけて、奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。
しかし、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていたと言われる。

その頃、父・信秀が潜在的に緊張関係を保って来た主筋の織田大和守家の清州城下に数騎で火を放つなど、父・信秀を驚かす行動なども取っている。

また、今川家に人質に行くはずだった松平竹千代(徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

1546年、元服して、織田家と対立していた美濃の斎藤道三との和睦と共に、その娘・濃姫と結婚している。
1551年、父・信秀が没したため、家督を継ぐ。

家督を継いだ後も、奇行は治まらなかったが、教育係だった平手政秀が信長を諌めるために切腹した。

さすがの信長も平手政秀の死は堪えたようで、「政秀寺」を建立し、平手政秀の霊を弔うという人情味も見せている。
1554年、村木砦の戦いで今川勢を破っている。

尾張統一と上洛

尾張国は、今川氏の侵攻により、守護の斯波氏の力が衰え、信長の織田家の主筋に当たる織田大和守家の織田信友が実権を握っていた。

その織田信友が信長の弟・信行の家督相続を支援し、信長暗殺を企てます。
その際、守護・斯波義統が、計画を信長に密告し、これに激怒した織田信友は斯波義統を殺害してしまいます。

その子供・斯波義銀が落ち延びてくると、信長は、織田信友を主君を殺した謀反人として殺害します。

こうして「織田大和守家」は滅び、守護代の配下であった信長が織田家の頭領となります。

1556年、義父の斎藤道三がその子・斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。

斎藤道三を救えなかった信長の能力に疑問をもった柴田勝家や林通勝などが、信長を廃して信長の弟・信勝(信行)を擁立しようとします。

これに信長や信長に味方した佐久間盛重や森可成などが対立して、戦うことになる(稲生の戦い)。

織田信勝や柴田勝家らは敗れるが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。
さらに兄・信広も謀反を企てるが未遂に終わり、降伏し、赦免されている。

しかし、弟・信勝が再び謀反を企て、信長に殺害されています。

さらに、信長は同族の織田一門の宗家であった「織田伊勢守家」の織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放。
また、新たに守護として擁立した斯波義銀が、信長追放を画策していることを察し、義銀を追放している。

こうして、1559年までには、尾張国の支配権を確立し、尾張の国主となった。

桶狭間の戦い

尾張国統一を果たした翌年、今川義元が尾張国へ侵攻。
駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。
織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。

今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。

信長は静寂を保っていたが、熱田神社に参拝すると、4,000人の軍勢を整えて出撃。
今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元を討ち取った。

現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却した(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。

これを機に、信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる(清洲同盟)。

美濃攻略

斎藤道三亡き後、信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。しかし、斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、信長は美濃に出兵し勝利(森部の戦い)。その後、稲葉山城を占拠、さらに西美濃三人衆などを味方に付けた信長は、ついに1567年、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃を統一した。このとき、井ノ口を岐阜と改称している。

天下布武

信長は1567年には、「天下布武」の朱印を使い始めており、天下統一を目指すようになったと見られている。
正親町天皇は信長を「古今無双の名将」と称している。

その頃中央では、三好三人衆と松永久秀が、将軍・足利義輝を暗殺し、足利義栄を傀儡として擁立して天下人として君臨していた。

松永久秀らは、さらに足利義昭の暗殺も企てた為に、足利義昭は信長を頼ってきた。
信長は、義昭の三好氏追討要請を応諾した。

1568年、信長は将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。

信長は、南近江の六角家を攻撃し、観音寺城を落とし、上洛を果たす。

信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好家勢力のうち、三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。
唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、副将軍の地位などを進められたが辞退し、和泉一国の守護への任命の恩賞だけを賜り岐阜へ帰国している。

信長の帰国をみて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。
信長と同盟を結んでいた浅井長政や池田勝正らの援軍と信長家臣の明智光秀の奮闘によりこれを撃破している。

第一次信長包囲網

1569年、信長は足利義昭の将軍としての権力を制限するため、『殿中御掟』9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。

さらに、秀吉に命じて但馬を攻め、山名祐豊を破り、生野銀山などを制圧。
そして越前の朝倉義景を討伐する為、浅井長政との盟約を反故にして、徳川家康と共に越前に進軍。
織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。

挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。

信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。

並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

さらに、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した(野田城・福島城の戦い)。

しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻する。

信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。
慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。

信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。
しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢の門徒が一揆を起こし(長島一向一揆)、信長の実弟・織田信興を自害に追い込んだ。

信長は六角義賢・義治父子と和睦し、さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請した。
そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功。

窮地を脱した。

第二次信長包囲網

1571年、信長は朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。
信長は何度か退避・中立勧告を出した後、なおも抵抗し続けた比叡山延暦寺を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。

一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合すると、徳川領への侵攻を開始する。
また、1572年、石山本願寺が信長と和睦したものの、三好義継・松永久秀らが共謀して信長に謀反を起こした。

そして、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。

さらに武田軍の秋山信友によって、岩村城が落とされ、徳川領においては一言坂の戦いで武田軍に大敗。
その上、遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。

これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に大敗。汎秀は討死した。

1573年、には、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、野田城を攻略する(野田城の戦い)。これに呼応して京の足利義昭が信長に対して挙兵したため、信長は岐阜から京都に向かって進軍した。

信長が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。
信長は、正親町天皇からの勅命で、足利義昭と和睦し、さらに信長を一番悩ませていた武田信玄が病死。
信長は窮地を脱した。

武田信玄の死により、信長は態勢を立て直し、1573年に再び対立した足利義昭を追放し、室町幕府は事実上滅亡する。

1573年、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した。
さらに信長は、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。
刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃。そして、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害した。

その後、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こしたが、これを撃退。
三好氏はここに滅亡した。

同じ年、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。

長島一向一揆

信長は伊勢長島にいる本願寺門徒の一向宗を倒すため、数万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めにした。

長島城の門徒は降伏したと見せかけて、信長の千人の兵と信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など死亡させる。
これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。

この戦によって長島を占領した。

1575年には、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、織田信長は石山本願寺・高屋城周辺に10万兵の大軍で出軍した(高屋城の戦い)。
高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出て、信長はこれを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は破城となる。
その後、石山本願寺と一時的な和睦が成立する。

天下人・信長

ついに信長は、信玄死後も織田や徳川領に侵攻を繰り返す武田軍の攻略を始める。

信長は3万の軍勢を率い、徳川軍8000と合流し、武田軍15000と長篠において戦う。
信長は、大量の火縄銃を用いるなどし、武田軍に圧勝した。

同じ年、正親町天皇は信長に再度官位を与えようとしたが、信長は断っている。
しかし、1575年、信長は権大納言に任じられる、また、右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)を兼任する。

以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた(内裏の近衛府の庁舎内では、信長は将軍・足利義昭の上司となる)。

これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものと見られる。

1576年に安土城を作り始め、1579年に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。
イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。

第三次信長包囲網

1576には、今度は丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。

さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
織田軍はこれに対し、明智光秀ら3万人の軍勢で向かうが、本願寺軍の攻勢に窮し、天王寺砦に立てこもり本願寺に囲まれるなど窮地に陥った。

信長は兵を集め救援に向かおうとするも、急な出来事であった為、3000人ほどしか集めることが出来なかった。
それでも信長は、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。

信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功。本願寺軍を撃破した(天王寺砦の戦い)。

その後、石山本願寺を水陸から包囲し、兵糧攻めにするも、援軍に現れた毛利水軍に織田水軍が敗れ、兵糧攻めが失敗に終わる。

この頃、越後の上杉謙信との関係が悪化し、謙信を盟主として、毛利輝元・石山本願寺・波多野秀治・紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。

1577年、信長は、雑賀衆を討伐するため紀州に出陣するも、上杉謙信の能登国侵攻などがあった為、討伐せず雑賀孫一を降伏させ、和睦し紀伊国から徹兵した。

大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、松永を討ち取った(信貴山城の戦い)。

その後、丹波国を平定する。

しかし、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻し、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれた。

そんな時に、上杉謙信が急死。
謙信には実子が無かった為に、養子の上杉景勝と上杉景虎が跡継ぎ争いを始めた。

この好機を生かし、飛騨国から越中国に侵攻し、上杉軍を撃破。上杉軍に対し、有利な立場になった。

またこの勝利を利用し全国の大名へ書状を送り織田家の強さを全国に知らしめた。

その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。

信長包囲網はまたもや崩壊した。

1978年には、正二位に昇叙されている。

多方面同時進撃

信長は部下に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。

上杉景勝に対しては柴田勝家・前田利家・佐々成政らを、武田勝頼に対しては滝川一益・織田信忠らを、波多野秀治に対しては明智光秀・細川藤孝らを、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。

中国地方侵攻

1578年、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる。

さらに、摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、足利義昭・毛利氏・本願寺と手を結んで信長に抵抗する。

信長は九鬼水軍の考案した鉄甲船を採用し、毛利水軍の撃破に成功する。

これにより、石山本願寺と荒木は毛利水軍の援助を受けすことが出来ずに孤立し始めます。

1579年には、波多野秀治を降伏させ、処刑。

荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。

その上、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。

1580年には、別所長治が切腹し、三木城が開城。

本願寺も正親町天皇の勅命のもと信長有利な条件を呑んで、信長と和睦し、大阪から退去した。

その後、播磨国、但馬国をも攻略した。
そして、鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。

同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢で伊賀国の伊賀惣国一揆を攻略。
伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

京都御馬揃え

信長は明智光秀に命じて京都で馬揃えを行った。

この馬揃えは朝廷からの求めに応じてのものだったが、織田軍の実力を誇示する一大軍事パレードでもあった。

この軍事威圧に反応して、天皇は信長を左大臣に推任。
この意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。

朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。
これは、信長のわがままから延期されている。

さらに、8月1日の八朔の祭りの際、信長は安土城下で馬揃えを挙行するが、これには近衛前久ら公家衆も参加する大行列であり、安土が武家政権の中心である事を天下に公言するイベントとなった

高野山包囲

1581年、高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せる。

信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。

そして、根来寺と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した。

信長は織田信張を総大将に任命して高野山攻めを発令。
さらに、堀秀政の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。

1582年には、武田征伐に主力を向ける為、高野山の戦闘はひとまず回避されたが、武田家滅亡後、信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した。

しかし決着はつかないまま本能寺の変が起こり、織田軍の高野山包囲は終了した。

甲州征伐

1581年に織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。
さらに、高天神城を奪回し、武田勝頼を追い詰めた。

武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まずにいた。

1582年には、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。

そして信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。
駿河から家康、相模から北条氏直、飛騨から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。

信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。

武田軍は、伊那城、松尾城が降伏、さらに信長軍は深志城の馬場昌房軍と戦い、これを開城させる。

駿河江尻城主・穴山信君も徳川家康に投降して、信濃高遠城も落城。

組織的な抵抗が出来ず済し崩し的に敗北する。

織田信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、武田領国の本拠である甲府を占領し、甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。

本能寺の変

信長は四国の長宗我部元親攻略に向け、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。

また、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃。

上杉軍は、北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

明智光秀には、中国地方の豊臣秀吉の援軍に向かうように指示し、信長自身も中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。

ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃する。

100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘した。
しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害した。享年49(満48歳没)。

以外に義理堅い性格

破天荒な性格で、裏切りを多く受けたが、以外にも信長の方から盟約・和睦を破った事は一度も無い。

一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。

身内には厳しくない!?

信長は娘の縁談に長女の徳姫(松平信康の妻)を除くと、個人的にも親交のある家臣である前田家、丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。

このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。

また、反乱を起こした兄・信広を赦免後には重用したり、信勝も一度は許している上に彼の遺児(津田信澄)の養育を手配し、元服後は一門衆として重用している。

叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子(織田勝長)までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。

信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない(武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である)など、身内に手厚い。

女性に優しい。

女性に関する記録が少なかった当時にあって、織田家関連の女性たちの中には本名が正確に記録されている女性が多いため、信長は当時の人間としては女性を重視していたとする見方もある。

また、自分の妻を尾張に残して岐阜に単身赴任した部下を叱ったり、家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。

羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、ねねに対しては励ましの手紙を送るなど、人間味を見せている。

立場の弱い人も優しい。

美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。

1575年、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿二十反を山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。

山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという。

信長は、自分に敵対する者に対しては苛烈を極め、家臣に対しても厳格であった一方、立場の弱い庶民たちに対しては寛大な一面もあった。

また、身分の低い足軽でありながら、長篠城を落城の危機から救った鳥居強右衛門の勇敢な行為を称え、自ら指揮して立派な墓を建立している。

信長はこのように、身命をかけて忠義を尽くした者に対しては身分の上下に関係なく自らも最大限の礼を尽くした。

そして、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。
実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭を取る際などにはその姿を庶民の前に直接現している。

安土城の内部を一般公開し、武士・庶民を問わず大勢の人々を城内に招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客一人につき銭百文ずつ見物料を取り立てたという記録も伝わっている。

黒人を大名に。

イエズス会の使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、弥助と名付けて側近にした。

信長は単なる好奇心だけでなくこの黒人を実戦の役に立つ兵としても重用していたようである。
信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは弥助に領地と城を与えて「殿(との、城主)」にするつもりであったが、その計画は本能寺の変により頓挫することとなった。

なお、弥助は本能寺の変の際にも信長に同行しており、明智の軍勢を相手に最後まで奮戦したと伝えられる。

頭が良かった。

イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。

宗教との関係

寺社勢力との戦いでも、先に武力を行使したことは無く和睦を申し出たり仏法に則っての中立を促すなどをしていたが、相手がそれを一蹴したり破るなどをしていた。

長島・越前の戦い等では相手を殲滅したが、その大元である顕如率いる本願寺との和睦も何度か受け入れている。

また、寺院や神社に対して所領安堵や課役免除などの保護をする一面もある。

第六天魔王

仏教の世界観では 三界といってこの世を無色界 (欲も色も離れた精神のみの世界)、色界 (欲にはとらわれないが色(物質 肉体)のある世界)、欲界 (欲望にとらわれた世界)と大きく三つに分けます。

欲界は地獄界や我々のいる人間界ですが、天界の下層6天(欲天)を含みます。
その欲天の最上天が他化自在天(第六天)で、その他化自在天、つまり欲界を支配しているのが「第六天魔王」です。

この魔王は、元はヒンズー教のシヴァ派の神ですが、仏教に取り入れられて第六天魔王になりました。
仏道修行者を色や欲で惑わし、天魔、天魔波旬とも呼ばれます。
つまり仏敵、欲界最強の魔王です。

信長の異名としては一向宗との争い、延暦寺焼き討ちの頃から、仏徒らにそう呼称されたようです。

しかし信長自身この呼び名を嫌ってなかったようで、信玄からの書状の天台座主沙門、に対抗して自ら第六天魔王、と自称した手紙を送っています。

天皇との関係

信長は皇室を保護する姿勢をとっている。
例えば、皇居の修理を行なう、皇太子の元服のための費用を献上している。

また、公家に対しても徳政令を出すなど経済的な救済を行なっている。

正親町天皇は信長に対して、左義長(火祭り)を共に見物することを誘ったり、誠仁親王は信長が死んだ際、自分はどうするべきか(信長の後を追って)切腹するべきかどうかを、明智(光秀)に質問したりしている。

誠仁親王の子、後陽成天皇は、直筆で総見院(信長の法名)と書いた額を、信長を弔う仏殿に恩賜している。

自ら先頭に立って戦った

桶狭間の戦いを始め、稲生の戦いでは自ら敵将を討ち取り、長良川の戦いでは殿軍も務めている。

一乗谷城の戦い、石山本願寺との天王寺砦の戦いでは総大将でありながら、自らが先頭に立って戦っている。

これは当時においても異例である。


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