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阪神・淡路大震災に関するエピソード

このページのエピソードはネット上に流れている不確かな話ばかりですが、実際にあったとされている話を集めました。コピペ集です。

モンゴル副首相

1995年1月22日、夕刻せまる関西空港に、一機の大型旅客機が着陸した。
降り立った人物は、モンゴル国プレブドルジ副首相である。 日本とモンゴルの間には定期航空路はない。同副首相は特別機を仕立てて、5時間かけて日本にやってきた。

同年1月17日に起こった未曾有の阪神大震災は、モンゴルでも重大ニュースとして報道され、大きなショックを全国民に与えた。その中にプレブドルジ副首相もいたのである。
国家非常事態管理担当相を兼務する同副首相にとっては、この大震災はひとごとではなかった。 モンゴル政府は21日朝、臨時閣議を開き、救援物資を送ることを決めたが、ただ送るということではなく、一刻も早く届けようとしたのだ。
毛布2100枚、手袋500組その他を直ちに政府特別機に積み込み、同副首相は国民を代表して見舞いにやってきてくれた。 1月の気温が氷点下50度近くになるこの国の人々にとっては、寒さに震える日本の被災者の気持ちがよく分かったのであろう。

日本とモンゴルの間の友好関係は長い歴史がある。
モンゴル国は、以前はモンゴル人民共和国と称し、長きにわたりソビエト連邦の衛星国の一つとして、ソ連共産党の指導下に入っていたが、その時代でさえ、モンゴルは日本に極めて好意的な国家として、経済交流面、文化交流面などで緊密な間柄を保っていた。
そのことにソ連政府が不快感を示しても、モンゴル政府は、“血の繋がりは、共産主義の教義よりも強し”としてこれを無視してきたのである。

ソ連崩壊後、自由主義国家を目指し、市場経済への道を歩み始めたモンゴルに対し、日本は同国にとっての最大の援助国として全面的に支援してきており、同国は日本の長きにわたる援助を多とし、感謝の気持ちを込めて救援に駆けつけてくれたのであろう。

関西空港で出迎えた外務省幹部が感謝の意を表明するとともに、長旅を労って、休息していただこうとしたが、“長居をしてご迷惑を掛けたくない”と、僅か90分だけの日本滞在で機上の人となった。

日本では“困った時の友が真の友”と云うが、モンゴルにも“困難に直面する時こそ、友人の価値が分かる”と云う諺があるという。
小さな国からの大きな贈り物であった。

スラム街からの義援金

阪神淡路大震災の際、日本全土から救援に駆けつけた一般市民や学生、企業人などの総数は、延べ130万人に達したと云われている。
日本ではボランティアは育たない、日本人はボランティア活動には関心がない、などと云われてきたが、実際には多くの人々が被災者の救援に大活躍したのである。

さらに、義援金も各地から送られてきたが、その額は約2000億円に達し、これまでの災害での最多の金額であったそうである。
ところで、この大震災の際、本来海外で救援活動を使命としていた日本のボランティア団体(NGO)が急遽現地に駆けつけ、長年蓄積したノウハウを生かして迅速な救助活動を行い、大きな成果を挙げ、感謝された。 これらのNGOの中に、アジアの途上国のスラム地区で長年に亘り、子供達への識字教育、男性達への技術指導、女性達への裁縫技術指導を行ってきている団体があった。

そして、この大震災が起こってまもなく、その団体宛に、スラム地区の住民達から一通の手紙と義援金が送られてきた。

“私達はこれまで日本のボランテイアの皆さんから親身の援助を受けてきた。今度の大震災のニュースを聞いて、いても立ってもいられず、これまでの恩返しの気持ちから住民みんなで募金活動をした。一人当り5円〜10円相当の募金をしてくれて、その総額は100万円を超えた。 この金額は日本人にとっては小さなものかもしれないが、これまでの厚情へのお礼を込めて、我々住民すべての気持ちであるので、お見舞金として被災者の方々にお渡ししたい”と。

アフリカの研修生からも心を込めて

日本には現在、政府あるいは自治体の招聘する研修生や留学生が多数学んでいる。
技術を習得し、友人を作り、良き思い出を持って帰国していただきたいものである。 さて、阪神淡路大震災の際、世界各国から救援物資や義援金が送られてきたが、その中に日本で学び帰国した元研修生からのものもあった。

アフリカのK国から来日し、10カ月の技術研修を終えて、帰国したAさんが滞日中の思い出に浸っていた矢先に、飛び込んできたのが阪神大震災のニュースであった。ショックな悲しいニュースであった。
Aさんは、滞日中に訪れたことのある神戸の夜景を思い浮かべ、研修中お世話になった日本の友人達を気遣いながら、早速手紙を書き、10ドル紙幣を義援金として同封し、在K国の日本大使館に送付した。Aさんにとって10ドルは月給の半分にあたる大金であるが、実りある研修時代に親身になって世話をしてくれた日本の人々への感謝を込めて日本の被災者のために送ってくれたのである。
アフリカばかりでなく、中南米からも、アジアの国々からも、同様の義援金が送られてきた。いずれもその人の月給あるいはそれに近い多額な義援金であった。多くの研修生の方々が良い思い出を持って帰国されたのだと知り、心温まる気持ちになるのである。

お金よりも大事なもの

僕の実家は阪神淡路大震災の直撃を受けた。
後に聞いた話で、家の崩壊まで10分ほど時間があったそうなのだが、 その間父は逃げ延び、祖母は自室で絶命し、母親は生き埋めになった。

僕と妹は運良く上京しており、被災から3日目には掘り起こしを手伝っていた。 泥まみれの母親を初めに発見したのは僕だった。その時足は骨折していたが、 身動きが取れない中、ボロ雑巾のようなものを握り締めて放さないでいた。 僕が小学校の時に描いた、お絵かきコンクールで銀賞を取った絵だった。
自分では記憶にすら残っていなかったその絵が、 母親にとっては自分の息子を誇る最も大切な宝物だったらしい。 危機に直面した土壇場で、身の安全やお金よりも、息子の絵の事を考えたんだそうだ。

大学に殆ど顔も出さず退学寸前だった俺は、 その日から勉強に励み、5年掛けて大学を卒業した。 当時は後ろめたかったけど、今では胸張って叱ってあげられる。 「今度地震があったら、自分の命を一番に考えろよ」って。 母さん、長生きして下さい。

自衛隊のちょっといい話

私達親子は阪神淡路大震災の時、自衛隊のみなさんに大変助けていただきました。
震災当時、私達夫婦には6歳になる息子があり、私は神戸市役所勤務、妻は保健婦として勤める 共稼ぎをしておりました。 震災直後から、二人とも職務に忙殺されていて、息子は保育所の先生とボランティアのケースワーカーの方に頼らざるを得ないような状況でした。

これは、私達夫婦がいない時に起こったことで、後になって息子とお世話になった自衛隊員から聞いたことです。
震災のあと、二月に入ったころ、息子が近所の公園で遊んでいた時にかなり大きな余震があり、息子は「揺れ」にトラウマがあったためにその場で動けなくなっていました。 そばで給水活動をしていた若い自衛官が息子を抱き上げてくれたそうです。息子はその自衛官の足にしがみついたまま 震えていたと聞きました。
「お兄ちゃんがいるから安心しな」ってずっと抱きしめていて くれた、と後になって息子から聞きました。 給水活動の持ち場は、その人の上官が代わってくれたそうです。

このことは、私達はしばらくのあいだ知らないままでした。息子が小学校2年生になったとき、 「あのときのお兄ちゃんにあいたい」と聞かされ、 そのときに息子を助けてくれた自衛官のいたことをはじめて知ったのです。
息子が小学校二年になったときに、本人の口から聞かされた「お兄ちゃん」のことは私達夫婦にとっても、直接あってお礼を言わなければならない人になりました。

その年の七夕の笹飾りに「お兄ちゃんにあいたい」と息子が書いたのをみて、わたしは息子の希望をかなえる べく人捜しをはじめました。
記憶をたどりながら、「たしか、、あの車には、第○××大隊、、と書いてあった」 防衛施設庁に電話をして、事情を話すと極めて迅速に調べ てくれました。
滋賀県にあるその部隊まで息子をつれて出かけました。 前もって電話でお願いしていたので、息子は「お兄ちゃん」との再会を果たすことができました。
あったとたんに、息子が飛びつき、「おにいちゃん」も「おおきくなったなー」と抱き上げてくれました。 息子が身体をぶつけてそのうれしさを表現しているのを見て、あの混乱の最中、父親として満たしてやれなかった部分を補ってくれた、 この若い自衛官に頭の下がる思いでした。

息子は「お兄ちゃん」のことを「臭いお兄ちゃん」とずっと言っていました。抱き着いた時、よほど汗臭かったのでしょう。息子の言う「臭い」は決して悪い意味ではなく、憧れのようなものがあったはずです。
そういえば、私達に炊き出しはしてくれても、あの人たちはカップラーメンを食べていた。 簡易風呂も私達が」先に入った。涙がでます、思い出して。

その、息子もはや高校生です。 今年の春は「お兄ちゃん」の婚礼に息子が招待されました。 一人前にあつかわれた息子はうれしそうでした。

自衛官の御一人お一人に感謝の言葉をいいたいです。 本当に感謝しています

その他被害

道路7,245箇所、橋梁330箇所、河川774箇所、崖崩れ347箇所。

被害総額

約10兆円規模であった。

民間企業による支援活動

ダイエー

神戸市に本社を構えていたスーパーマーケット大手のダイエー以下、当時のダイエーグループ企業(ローソンなど)は、震災の一報を東京都内の自宅で知った中内功社長(当時)の指揮により、建物が半壊状態であっても兵庫県内を中心に関西圏の営業可能な状態の店をすぐに開け、在庫のある商品、空輸で届いた商品(食料品以外の毛布、懐炉なども含む)などを破格(菓子パンやおにぎり一個10円等)で提供した。

生協(生活協同組合コープこうべ)

「災害時に食料等を放出する」という契約に基づき、食料の配給を行った。

ゲーム会社

任天堂はゲームボーイを5000台とヘッドホン、トランプ3000個を、セガはリコーダー20000本を被災児童に提供した。

淡路屋(駅弁製造大手)

震災直後本社工場の損害が軽微だったため在庫の材料を使用して製造した弁当を避難所に配布し、その後各事業者の支援のもと工場設備を回復させ避難所への食料支援拠点として活躍した。

山口組(日本最大の広域指定暴力団)

神戸市内に本拠を置く日本最大の広域指定暴力団である山口組の総本部が備蓄していた大量の食料を地元住民に供出した。石油暖房機を積んだトラックを用意し毎日手際よく食事を提供するなどの援助を行っていたため、多くの被災者が集まっていた。

ボランティア活動

地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は1日平均2万人超、3か月間で延べ117万人とも言われる。

政府・県の対応

内閣総理大臣であった社会党の村山富市は、不完全ながらも随時上げられる情報により未曾有の大災害であることが明らかになりつつある中でも、開会が差し迫った通常国会への対応や懸案となっていた新党問題、財界首脳との食事会など予定通りの公務をこなす傍ら災害対応を行ったため、十分な対応を行わなかったのではないかという疑念を生んだ。

兵庫県からの自衛隊への災害派遣要請が、発生後4時間以上も後であった。

初動対処が遅れた原因として左翼的思想の影響も指摘された。批判で指摘されたのは、社会党の反自衛隊思想、被災地である兵庫県をはじめ京阪神地域が革新勢力の票田であること、社会党を支持している全日本自治団体労働組合の影響などである。自治体組織の緩慢な初動の背景としてもこれらは指摘されている。産経新聞は1月28日、1面コラムにて社会党が野党時代に自衛隊の廃止を誓ったことを挙げて批判した。

犯罪・問題行為

兵庫県内の強姦の事件数自体は前年と変わらず、逆に強制わいせつ事件は減少していた。また、窃盗・強盗の件数も同様に減っていた。



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