忠臣蔵
忠臣蔵とは、 人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつである『仮名手本忠臣蔵』の通称。
また歌舞伎や演劇・映画の分野で、兵庫県赤穂市、相生市、上郡町周辺を領有 した赤穂藩の赤穂浪士の「復仇事件元禄赤穂事件」に題材をとった創作作品のこと。
『仮名手本忠臣蔵』はのちに独参湯(薬の名前)とも呼ばれ、客が不入りの時でもこれを出せば当たるといわれるほど日本で大人気の演目。
さらに歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品がつくられ、「忠臣蔵物」と呼ばれるジャンルを形成する。そのような作品のひとつに『仮名手本忠臣蔵』と怪談を組み合わせた鶴屋南北作『東海道四谷怪談』がある。
本所の吉良邸襲撃の日は旧暦12月14日(正確には翌日未明)であったが、現在に至るも新暦12月14日が近づくと忠臣蔵のテレビドラマや映画が放映されるなど、その人気は衰えを見せない。多くの映画製作、テレビドラマ化、舞台上演がほぼ毎年行われている。
赤穂浪士の復仇事件元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)
忠臣蔵の元となっている事件
江戸時代中期の元禄期に発生した赤穂浪士にまつわる事件。
播磨赤穂藩主の浅野長矩(内匠頭)が、高家旗本・吉良義央(上野介)に対して江戸城殿中において刃傷に及ぶも失敗し、殿中抜刀の罪で即日切腹・赤穂藩改易となったが、浅野の遺臣である大石良雄(内蔵助)以下、赤穂浪士47名(四十七士)が1年9か月後の深夜に吉良屋敷に討ち入り、主君が討ち漏らした吉良義央を討った事件である。
ことの発端
今から約300年前、3月14日江戸城中「松の廊下」において刃傷沙汰がありました。江戸城殿中において京都からの勅使饗応の儀式の最中、接待担当の大名で播州赤穂五万三千石の殿様、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、なんと儀式儀礼を教える先生役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切りつけたのです。
切りつける際に「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだそうです。吉良は背後から背中を斬られ、「これはなんと」と振り向いたところを額を2回切りつけられ、気を失ってうつ伏せに倒れたとのこと。幸か不幸か、吉良上野介は死ぬほどの大事には至らなかったのですが、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家の改易、吉良上野介はお咎めなし。喧嘩両成敗の鉄則に反したばかりに、かたき討ちの思いが赤穂藩浪士に広がった。
赤穂藩の動き
江戸から赤穂藩に第1報が伝わったのは3月20日。赤穂城内にある筆頭家老大石良雄の屋敷に浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだという書状が届いた。この書状には吉良義央の存命については何も書かれておらず、吉良は討ち取られたと思い込んでいたといわれる。
続いて第2報、第3報が届き、藩主浅野長矩切腹の情報が伝えられた。そこに吉良義央の生死や赤穂藩の改易については何も書かれていなかったが、大石良雄はすぐさま藩札の処理を札座奉行に命じ、早くも翌3月21日には領内数箇所に藩札交換所を設けて六分率で交換させ、赤穂経済の混乱の回避に努めた。
3月22日には第4報、3月25日には第5報が到着し、江戸の浅野家上下屋敷が召し上げられたことが書かれていた。この段階でも吉良義央の生死の情報はなく、吉良の死を疑いだした大石良雄は、吉良の生死を確かめるために江戸へ人を派遣した。
赤穂藩の会議
事件の知らせを受け、今後の対応について3月27日から3日間にわたって城内広間において大会議を開催している。
この会議では篭城を主張する抗戦派と、開城して御家再興を嘆願すべきとする恭順派に意見が分かれて対立した。篭城抗戦派の意見が強い状態であった。この頃に、大石良雄も吉良義央の生存の情報を得ている。親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣された。
藩金分配については、筆頭家老の大石良雄が原兄弟の提案していた下級藩士に厚い配分する意見に賛同し、下級藩士に手厚い配分を行った。しかも配分に当たって大石自らは分配金受け取りを辞退したので、藩士たちの支持を集めた。
大石良雄は、当初より開城してのお家再興派だったと言われているが、最初は篭城の主張に賛同しつつ原元辰ら篭城派の支持を獲得するも、篭城しても勝ち目が無いことと御親類へ迷惑が大きすぎるとのことで、藩士一同の殉死をもってお家再興嘆願へという方向での意見集約を得て行く。大石良雄は切腹に同調した藩士60人から80人の(神文血判を提出した人数は文献によって異なる)それぞれから誓紙血判を提出させて義盟を結んだ。
江戸にいる赤穂藩士
江戸詰めの藩士たちは吉良義央が存命であることを知り、多くが吉良を主君に代わって討つべしと主張するようになった。中心人物の堀部武庸らは赤穂へ戻って、ただちに大石良雄はじめ重臣達に会見を申し込んで吉良義央への仇討ちを主張し、吉良への仇討ちを前提とした開城へと誘導し、浅野家中は開城に意見がまとまっていった。
赤穂城開城
赤穂城は開城されることとなり、4月18日に赤穂城検分が行われた。
検分に来た荒木政羽らに大石良雄は3回にわたって浅野長矩の弟浅野長広をもっての浅野家再興を願い出た。
3回目の嘆願でようやく荒木政羽が浅野家再興を老中に取り次ぐことを約束したと『江赤見聞記』に記されている。
翌4月19日(5月26日)に大石は赤穂城を無血開城した。
明渡しに際しての対応は、実に見事なものであったといわれる。
赤穂城開城後、大石良雄ら藩士の一部は遠林寺に入って、5月21日まで藩政残務処理に追われた。残務処理が終わった後、大石良雄は腕にできた腫れ物の療養のため赤穂に滞在している。この間も御家再興運動を積極的に行っている。
御家再興の嘆願
赤穂を離れた後の7月、大石良雄は山城国山科に隠棲する。ここでも大石良雄は浅野家再興運動を進めている。
江戸にいる堀部武庸ら敵討ち急進派は、待ちきれず大石良雄に江戸に来るように書状を送りつけてくるようになったが、大石はひたすら浅野長広のため隠忍自重するよう求める返書を書き続け、江戸に行くのをを避けた。
江戸急進派からの書状で、「大学様も兄親の切腹を見ながらでは、100万石が下されても人前に立てないだろう」と述べるようになり、大石は江戸急進派鎮撫に使者の派遣の必要性を感じるようになったといわれる。
9月下旬、大石良雄は江戸急進派を落ち着かせる為に原元辰(300石足軽頭)ら数人を江戸に派遣している。しかし、派遣した原元辰らも江戸急進派に諭されて急進派になってしまったので、大石良雄が江戸に向かった。大石良雄は江戸で堀部武庸ら急進派と会談し、浅野長矩の一周忌になる明年3月に決行を約束した。
江戸下向
年末からは脱盟者も出始め、江戸の急進派の中心人物の一人も脱盟した。江戸急進派の面目を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。大石良雄はこれを好機として2月15日の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定する。
しかし堀部ら江戸急進派は決定に納得せず、大石をはずして代わりに原元辰を大将にして独自に決起することを模索しつつ、6月には最後の調整のため堀部武庸が自ら京都へ乗り込んでくることとなった。堀部は「もはや大石は不要」として大石を斬り捨てるつもりだったとも言われる。
この頃、お家再興が難しい情勢となり、7月18日に、幕府が浅野長広に広島藩への永預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは完全に絶たれる。大石良雄も以降は討ち入り一本と決め、堀部ら江戸急進派との対立はここに解消された。
7月28日、大石は、堀部武庸も招いて京都円山で同志との会議を開き、本所吉良屋敷への討ち入りを決定した。大石良雄はお家再興だけを目当てに盟約を参加していた者がいるであろうことを鑑みて、義盟への誓紙を一度返却させ、盟約から抜ける機会を与えた。誓紙の返還を拒んだ者だけに仇討ちの真意を伝えた。この行為は「神文返し」と呼ばれた。
この頃には江戸の同志や遅れて出した同志も足して130人を超えていたが、神文返しによってその数は60人以下になったといわれていたが、史実ではないと言われている。
大石良雄江戸に行く
11月5日に大石の一行は江戸へ入る。本所吉良屋敷を同志に探らせ、吉良邸絵図面を入手した。
討ち入り前
吉良義央在邸確実の日を探り、12月14日に吉良家の茶会があるとの情報を得て、この日12月14日を討ち入りの日と決定した。江戸潜伏中にも脱盟者が出て、最後まで残った同志の数は47人であった。12月2日に同志が集まり、討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。
討ち入り
12月14日午後、同士は集まり、その後3か所の集合場所に分かれた。それぞれの集合場所から表門隊と裏門隊の二手に別れて吉良邸に討ち入った。実際に襲撃したのは現在の時刻で12月15日に入っての未明午前4時頃であった。
庭の見張り組は「五十人組は東へ回れ」「三十人組は西へ回れ」などと声高に叫ぶことであたかも百人以上の大勢が討ち入ったかに装ったとしており、これが功を奏し、長屋にいた吉良家臣たちは本当にその人数がいると信じ込み、ほとんどの者が恐怖で長屋から出てこなかったという。
吉良方
吉良家臣の数は諸説あってはっきりとしていないが、討ち入り後の幕府の検死役の書に「中間小物共八十九人」と書かれている。桑名藩所伝覚書では「上杉弾正(上杉綱憲)から吉良佐平(吉良義周)様へ御付人の儀侍分の者四十人程。雑兵百八十人程参り居り申し候よし」と記しており、上杉家からかなりの数の士分と非士分が吉良義周(上杉綱憲の次男。吉良義央の養子)にしたがって吉良家へ入ったとしている。
上杉家の動き
米沢藩主である上杉綱憲は吉良義央の実子で、赤穂浪士の討ち入りを知った綱憲が父の援軍に出馬しようとするところを上杉家の縁戚である高家・畠山義寧が綱憲を止めている。
綱憲は、江戸では赤穂の浪人が多く危険であるとして、吉良に米沢へ隠居するよう勧めていた。12月14日の吉良屋敷での茶会は江戸での別れの茶会であったといわれる。
赤穂浪士は討ち入りに際して上杉家からの援軍と、引きあげ時の追撃を警戒していた。
実際に上杉家では藩邸に討ち入りの報が入ると、直ちに数人を出して様子を探らせ、赤穂浪士に対抗できるだけの人数を集めていた。そうしているうちに吉良義央が討ち取られて、赤穂浪士たちは引きあげてしまったという報告が入った。
やがて、幕閣から上杉家へ赤穂浪士の処分は幕府が行うので上杉家は手出ししないよう命じられてしまった。上杉家は幕府の命に従う外なかったが、世間からは腰抜けと冷笑されたといわれる。
終結
討ち入りした赤穂浪士が台所横の炭小屋からヒソヒソ声がするのを聞いたため、中へ入ろうとすると、中から皿鉢や炭などが投げつけられ、さらに2人の吉良家臣たちが中から斬りかかってきたのでこの2人を切り伏せたあと、尚奥で動くものがあったため、槍で突いた。
出てきたのは老人で脇差で抵抗しようとするも一刀のもと斬り捨てられた。老人であり、白小袖を着ていることからこの死体をよく調べてみると面と背中に傷があったので吉良に間違いないと判断し、首を落とした。そして合図の笛を吹き後、玄関前に集合した赤穂浪士たちは表門番人の3人に吉良の首を見せて間違いなく吉良義央であることを確認した。
吉良家は16名の死者と23名の負傷者を出した。赤穂浪士は負傷者2名であった。
引き上げ
討ち入り後は、吉良邸内の厳重な火の始末をし、吉良義央の遺体を寝所に安置した後、吉良の首は槍の先に掲げられ吉良邸を出発し、浅野長矩の菩提である高輪泉岳寺に向かった。墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。また、この際に足軽の寺坂信行が立ち退いており、赤穂浪士は46人となっていた。
幕府の評定
討ち入りの報告を受けた幕府は老中による幕閣の協議が行われ、協議内容は将軍徳川綱吉へ上奏され、46人の赤穂浪士は、細川、松平、毛利、水野の4大名家に預けさせた。浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。
細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである。
赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士には賞賛するものもいた。本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉をはじめとする幕閣は死罪か切腹か助命かで対応に苦慮した。
幕府評定所は12月23日に「赤穂浪士は真の忠義者であるのでこのままお預かりにしておき、いずれは放免すべき。」、「吉良家家臣で戦わなかったものは侍とは認められないので斬罪に処すべき。」、「上杉綱憲は父親の危機に何もしなかったので領地召し上げにするべき」という赤穂浪士よりの意見書を将軍綱吉に提出したと言われている。
学者間でも議論がかわされ、助命を主張したものもいたが、「46士の行為は、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中もはばからないで罪に処されたのを、吉良を仇として、公儀の許しもないのに騒動をおこしたことは、法をまぬがれることはできない」との主張があり、この意見が採用され、浪士には切腹が命じられた。
助命
こうしたなかで将軍綱吉は徐々に助命に傾き、皇族から出された恩赦という形を得るため、それとなく法親王から恩赦を出すよう依頼するに至ったという説がある。しかし法親王は「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか。おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。だが、今死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。時には死を与えることも情けとなる」と述べ、これをもっともと考えた将軍綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じることを決意したという説もある。
切腹
元禄16年2月4日(3月20日)、4大名家へ切腹の命が伝えられる。また同日、幕府評定所は吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信濃諏訪藩高島への配流の処分を下した。46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていたため、素早く終わった。
間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている。細川綱利は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩の氏神であるとして清掃する必要なしと指示している。赤穂浪士の遺骸は主君浅野長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。
当時の刑罰は明治時代以降と大きく異なり、一族連座が基本であったが、赤穂浪士については幕閣内にも同情論が強かったため、本件での一族連座は限定的となった。赤穂浪士の遺子のうち、15歳以上の男子でかつ出家した者を除いた4人が伊豆大島へ流罪となったが、1706年には出家を条件に赦免された。
浅野家の再興
宝永6年1月10日、将軍綱吉が死去し甥の家宣が将軍を継ぐと、新将軍就任の恩赦により、出家していた赤穂浪士の遺子たちの還俗も認められた。 同年8月、内匠頭の実弟である浅野長広も赦免され、500石の旗本に列した。
また、正徳3年、大石良雄の三男が広島の浅野宗家に1,500石で召抱えられた。
村上喜剣
薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石良雄をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。しかしその後、大石が吉良義央を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。大高忠雄の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであるといわれる。
大高忠雄の詫び証文
大高忠雄が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。大高は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。
「不忠臣」のその後
赤穂藩浅野家家臣は士分だけでも300名以上いたが、このうち討ち入りに参加したのは46名で(寺坂は士分ではなく足軽身分)、8割以上が討ち入りに参加していない。討ち入りに参加した藩士が義士として称えられれば称えられるほど、その反動として、討ち入りに参加しなかった者とその家族に対しては幕末まで厳しい批判が向けられることになっていった。討ち入りに参加した浪士の子弟らは各藩から争って招聘される一方、脱盟者で後に仕官が適った者は大石信興以外には確認されていない。しかし、「不忠臣」と呼ばれるが、討ち入りを事前に密告した者はいなかった。
吉良低の隣家の様子
江戸市内ではすでに旧赤穂藩士が吉良邸へ討ち入りするかもしれないという のは、かなり噂になっていたらしい。 そこで隣の家では、なんと物見台を屋敷の境界近くに作り、そこで酒を飲みながら見物していたとのこと。
しかも、自分のところが争いに巻き込まれるのを避ける ために、庭内に完全武装をした兵士を配置までしていた。 さらに吉良邸から逃げてくる吉良藩士を、「潔く戦って散れ!」と槍で追い返した。
吉良上野介様は名君だった。
吉良上野介は、忠臣蔵では悪役とされています。ですが、国許では名君の誉れ高き人気者だったそうです。
東海道四谷怪談
鶴屋南北作の歌舞伎狂言。全5幕。1825年、江戸中村座で初演された。
南北の代表的な生世話狂言であり、怪談狂言(夏狂言)。『仮名手本忠臣蔵』の世界を用いた外伝という体裁で書かれ、「お岩伝説」に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたという当時の話題や、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという話などが取り入れられた。
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