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震災孤児とポーランド

阪神大震災の翌年のことです。震災で親を亡くした日本の子どもたち30人がポーランドに3週間も招待されました。招待された子供達は、ポーランド各地で大歓待を受けました。

何故ポーランド?

子供たちが帰国する最終日にお別れパーティーに8人のポーランドの老人がやって来て、その理由を子供たちに語ってくれたそうです。

ことの起こりは75年前のことです。
その昔、ポーランドは帝政ロシアの支配下におかれていました。ポーランド人たちは、あくまで独立を図ろうとして抵抗しました。そしてその中心となった愛国者たちは、家族ごとシベリアに強制流刑されました。

しかし、ロシア革命の最中、ロシアが内戦状態の1919年にポーランドはロシアから独立することが出来ました。
シベリアにはこのとき十数万のポーランド人がいたのですが、内乱によって、ただでさえ乏しかった食料の供給が止まり、彼らはたいへんな飢餓と疫病の中で、苦しい生活を余儀なくされていたのです。そして、凍土と滞る食料配給のために、多くの愛国識者たちが、病や飢えに倒れてしまったのです。
飢えで倒れた親の子供達はより一層、悲惨な状態に置かれてしまってしまいました。

「せめて、せめてこの子供達だけでも生きて祖国に送り届けたい」

1919年9月、ウラジオストク在住のポーランド人たちは、「ポーランド救済委員会」を組織し、子供達をなんとかして祖国に送り返そうとしました。
けれどお金がない。会員を募り資金をカンパを呼びかけるけれど、子供達を飢えから救い、祖国に送り返すだけの資金に至らないのです。

翌、1920年の春になると、ポーランドと、新しくできたソ連との間に戦争が始まります。
孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは、これで完全に不可能となってしまいます。

そこでポーランド救済委員会のメンバーは、欧米諸国に、子供達を救いたいと援助を求めました。 けれど、ポーランドの孤児たちを支援することは、軍事大国となったソ連を敵に回すことになります。
ソ連との関わりを避けたい欧州の諸国は、ことごとく救済委員会の申し出をしりぞけていました。シベリアにいるポーランドの孤児たちは、ヨーロッパ国々からも、見捨てられてしまったのです。

救済委員会のメンバーは、窮余の一策として、日本政府に援助を要請しました。
救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は、満州にいた日本軍の協力を得て、1920年6月に来日します。そして外務省を訪れ、シベリア孤児の惨状を訴え、援助を懇請しました。

この頃の日本は、独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない状態です。 外交官の交換をしていないということは、国家として未承認ということで、そんな未承認国家の、流刑者の子供達に支援の手を差し伸べるなど、普通ならありえないことです。
しかし女史の嘆願は、外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わずか17日後には、日赤はシベリア孤児の救済事業を行なうことを決定したのです。 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援を得て、決定からわずか2週間後には動き出しました。第一次の5回、第二次の3回の合計8回の事業で合計765人のポーランド孤児たちが、祖国ポーランドに送り出されました。

この孤児たちの来日にあたっては、「習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよい」ということから、日赤は孤児10名に1人の割合で、合計65人のポーランド人の大人を一緒に日本に招くという手厚い配慮までしています。

その時の恩をポーランド人達は覚えていてくれたのです。

当時の日本の対応

ポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めました。
この孤児たちのためにと、日本では、無料で歯科治療や理髪を申し出る人たちもいました。 学生の音楽隊も、慰問に来てくれました。 仏教婦人会や慈善協会は、子供達を慰安会に招待してくれました。 他にも個人で慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々が後をたちませんでした。

ポーランド孤児の一人が腸チフスに罹って、看護婦が必死で看病し、腸チフスが伝染し一人の看護婦さんが殉職しています。
貞明皇后陛下も孤児達を励ましに訪れて下さっています。

日本出発前には各自に洋服が新調されました。 さらに航海中の寒さも考慮されて、全員に毛糸のチョッキが支給されました。 さらに多くの人々が、子供達に衣類やおもちゃの贈り物をしてくれました。

横浜港から祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がったといいます。
埠頭の孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、泣きながら「君が代」を斉唱し、幼い感謝の気持ちを表しました。 神戸港からの出発では、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送人たちは、子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振って見送ったとのことです。

ポーランド孤児達の回想

回想1

子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫で、熱が出ていないかどうかを確かめていたそうです。 「その手の温かさが忘れられない」と語ってくれたそうです。

回想2

「ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されました。そのあと、支給された浴衣の袖に、飴や菓子類をたっぷ入れてもらいました。とっても感激しました。特別に痩せていた女の子は、日本人のお医者さんが心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれました。その栄養剤が大変おいしかったので、一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかったです。」

孤児と日本とのつながりは続く

祖国に戻った孤児たちの中に「イエジ・ストシャウコフスキ」という少年がいました。

彼は、17歳の青年となった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長に就任します。 彼の会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設けられ1930年代後半の最盛期には、極東青年会の会員数は640名を数えます。

1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接すると、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定しました。 彼の組織には、シベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちが参加し、やがて1万数千名を数える巨大レジスタンス組織になります。
彼は、ワルシャワを拠点として地下活動を展開したのですが、当然、これにナチスドイツが目をつけます。

ある日、イエジが隠れみのとして使っていた孤児院に、多数のドイツ兵が押し入ってきて強制捜査を始めたのです。 このとき、急報を受けて駆けつけたのが日本大使館の書記官でした。
日本人書記官は、武装したナチスの兵士たちを前に、「この孤児院は日本帝国大使館が保護している」と強調しました。 そして、孤児院院長を兼ねていたイエジ青年に向かって、 「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と言います。 イエジたちは、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱した。 ドイツ兵たちは呆気にとられ、 「大変失礼しました」といって直ちに引き上げ、イエジ青年たちは一命をとりとめています。

震災孤児とポーランド孤児

ポーランド大使を務めていた兵藤長雄氏は、阪神淡路大震災の日本人孤児たちの前に、8名の元ポーランド孤児だった老婆を公邸に招待しました。
全員が80歳以上のご高齢です。
一人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつきました。 そのご婦人のお話です。

「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかしもうそれは叶えられません。 だけど大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、這ってでも伺いたいと思いました。なぜって、ここは小さな日本の領土だって聞いたからです。今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません。」

老婆たちは70年以上昔の日本での出来事を、細かなところまでよく覚えておいででした。 別の一人の老婆は、日本の絵はがきを貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、いまでも肌身離さずに持っていると、みんなに見せてくれました。 同様に日本を離れる際に送られた布でできた帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、それぞれが大切な宝物として、いまも大切にたいせつに持っているものを、互いに見せあいました。

ポーランド極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べています。

「日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。 われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。 ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい。」



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