上杉謙信
戦国時代の越後国の戦国大名。その生涯で約70回もの合戦を行い、大きな戦いでの敗戦は一つもなく、後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。そのあまりの強さゆえに、謙信が敵地へ攻め込むと、殆どの敵は野戦で謙信と戦う不利を悟って籠城による持久戦をとる程であった。
甲斐国の武田信玄のライバルとしても知られる。
越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが志半ばで死去した。
出生
1503年に越後守護代・長尾為景の四男として春日山城で生まれる。主君・上杉定実からみて「妻の甥」であり、「娘婿の弟」にあたる。
父・長尾為景は越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領・上杉顕定を長森原の戦いで討ち取った。次の守護・上杉定実を傀儡化して勢威を振るったものの、越後国を平定するには至らなかった。
1536年に父・為景は隠居し、長男の晴景が家督を継いだ。謙信は父・為景から疎んじられていたとされており、避けられる形で寺に入れられていた。
1542年、父・為景が病没するも、兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなかった。
1543年に謙信は元服し、兄・晴景の命を受け、栃尾城に入った。
1544年、兄・晴景が頼りないことから、豪族が反乱を起こした。そして、当時15歳だった謙信を若輩と軽んじ、栃尾城に攻め寄せた。しかし、謙信はこれを鎮圧することで初陣を飾る。
越後統一
1545年、今度は上杉家の老臣・黒田秀忠が謀反を起こした。秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害、その後黒滝城に立て籠もった。
謙信は、兄に代わって主君・上杉定実から討伐を命じられ、総大将として攻撃を指揮し、秀忠を降伏させた(黒滝城の戦い)。翌年、黒田秀忠はもう一度反乱を起こす。謙信は二度目は許さず、黒田家を滅ぼした。
するとかねてから兄・晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し兄・晴景に退陣を迫るようになり、兄・晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。1548年になるとさらにその関係は悪化したが、主君・上杉定実の調停のもと、兄・晴景は謙信を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となる。
1550年には、主君・上杉定実が後継者を遺さず死去した為、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めた。
しかし、この家督相続に不満を持った一族の長尾政景が反乱を起こした。これを謙信は、簡単に制圧。政景は姉の夫であることから許され、以後重臣として活躍する。この反乱を鎮圧したことで越後国の内乱は収まり、謙信は22歳の若さで越後国の統一を果たす。
ライバル武田信玄
川中島の戦い
1552年、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、謙信を頼り越後国へ逃亡してきた。これにより、北条氏康と敵対関係になった。
同じ年に、謙信は上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功する。
さらに同じ年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が謙信に救いを求めてくる。
翌年には、信濃国の村上義清が信玄との抗争に敗れて謙信に応援を要請してきた。
援軍を貰った村上義清は武田軍相手に善戦するも、信玄自ら大軍を用いて村上領に侵攻すると、村上義清は再び謙信の越後国に逃亡した。
これを受けて、謙信は武田信玄討伐を決意し、自ら軍を率いて信玄の信濃国に出陣した。
布施の戦いで武田軍を圧倒すると、八幡でも武田軍を破る。さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城・青柳城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落とした。
これに対し信玄は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。
1554年、家臣の北条高広が武田と通じ謀反を起こすも、これを鎮圧。北条高広は帰参を許される。
この間に旭山城を支配下に置いた武田軍に対抗するため、再び武田信玄の信濃国へ出兵し、信玄と対峙した(第二次川中島の戦い)。この対峙は、小競り合いに終始して決着はつかず。
最終的に信玄が謙信に、駿河国の今川義元の仲介のもとで和睦を願い出る。
謙信に有利な条件で和睦を受ける。
ところが、1556年、謙信は家臣同士の争いや国衆の紛争の調停などに心身が疲れ果てた為、突然出家・隠居することを宣言。
遺書を残し高野山に向かうも、信玄に内通した家臣・大熊朝秀が反旗を翻す。周囲に説得されて、出家を断念。越後国へ戻り、大熊朝秀を打ち破る(駒帰の戦い)。
1557年、謙信との盟約を反故にして武田信玄が上杉方の城へ侵攻。これに激怒した謙信が出陣し、再び川中島で激突する(第三次川中島の戦い)。
謙信は武田領内深くまで進攻するも、謙信の強さを知る信玄は決戦を避け、謙信の背後の城を攻略。一方の謙信は背後を脅かされたため、飯山城まで兵を引き、信玄と交戦するも決定的な戦いにはならなかった。
さらに、謙信の領土で一向一揆が起きた為、謙信は軍を引き上げた。
小田原城の戦い
1559年、上洛して天皇や将軍・足利義輝に拝謁し、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。
1560年には、越中の椎名康胤に援軍を求められ、富山城、増山城を落とし、椎名康胤を助けている。
そして、同じ年に桶狭間の戦いで北条氏の同盟国である今川家が織田信長に討たれた機会に乗じ、ついに謙信は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣する。
上野国に入った謙信は、小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方の諸城を次々に攻略。
さらに翌年、上野国から武蔵国へ進撃。深谷城・忍城・羽生城等を支配下に治めつつ、さらに北条氏康の居城・小田原城を目指し相模国にまで侵攻し、鎌倉を落とした。
北条氏康は攻めてくるのが上杉謙信である為、野戦は不利と判断、籠城策を取る。翌1561年、謙信は旧上杉家家臣団を中心とする10万余りの大軍で小田原城を始めとする書状を包囲、攻撃を開始した(小田原城の戦い)。北条氏康を窮地に追い込んだ。
小田原城を包囲はしたものの、北条氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。長期に亘る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどした。
このため景虎は、北条氏の本拠地・小田原城にまで攻め入りながら、これを落城させるには至らず、鎌倉に兵を引いた。
越後国への帰国の途中にも、武蔵国の要衝・松山城を落城させる。
再び川中島の戦い
謙信は関東管領・上杉憲政の後を継ぎ、関東管領に就任する。
このころ武田勢は北信濃へ侵攻していた。謙信は、関東から帰国後、川中島へ出陣する(第四次川中島の戦い)。
このとき武田軍と大決戦に及び、武田信繁・山本勘助ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えたという。
同年末には、武田と北条が同時に上杉軍に侵攻、北条には生野山の戦いに敗れるも、松山城を攻める北条軍を撤退させる。
1561年に、それまで信玄の上野国への侵攻に徹底抗戦していた、上杉方の名将・長野業正が病死した為、信玄は上野国へ攻勢をかける。同時に北条氏康が反撃に転じ、松山城を奪還するなど勢力を北へ伸ばす。これに対し関東の諸将は、謙信が関東へ出兵してくれば上杉方に恭順・降伏し、謙信が越後国へ引き上げれば北条方へ寝返ることを繰り返した。
関東出兵
1562年、上野館林城の赤井氏を滅ぼす。同じ年に、越中国の神保長職を降伏させた。
しかし、謙信が越後国へ帰ると再び、神保長職が挙兵した為、再度越中国へ戻り、神保長職を降伏させた。
ところが関東を留守にしている間に、武田・北条の5万を超える連合軍に武蔵国の要衝・松山城が落城する。しかし、謙信は怒涛の反撃に出て、武蔵国へ侵攻。騎西城を落とし武蔵忍城を降伏させると、下野国に転戦して唐沢山城を降伏させる。
さらに小山城を攻略して、下総国まで進出。結城城を降伏させ、関東の諸城を次々に攻略した。
その上、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、山王堂の戦いで氏治を破り、その居城・小田城を攻略した。その後、苦戦しつつも佐野昌綱を降伏させ、上野国の和太政を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国した。
5度目の川中島の戦いとその後
1564年、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄に信濃国水内郡の野尻城を攻略されたが奪還し、謙信は信玄と川中島で再び対峙した。しかし信玄が本陣を塩崎城に置いて謙信との決戦を避けたため、2か月に及ぶ対峙の末に決着はつかなかった。これ以降、謙信と信玄が川中島で戦うことはなかった。
5度の川中島での戦いを通して、信玄の信濃統一を頓挫させ、越後国侵攻を阻止することに成功したが、領土的には信濃国の北辺を掌握したのみで、上杉方の旧領土を回復させることは出来なかった。
同じ年に佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、降伏させている。
1566年、常陸国で小田氏治を降伏させ、北条に追い詰められた里見氏の救援に向かう為、下総国にまで奥深く進出したが、攻めきれず撤退する。この撤退により、謙信に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降り始める。
その上、西上野の最後の拠点・箕輪城も信玄に落とされ、関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに謙信は関東進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。
しかし、信玄が徳川家康と対立するようになると、信玄との北信濃をめぐる戦いは収束しだした。さらに、信玄は北条氏康とも断交し、謙信との和睦を探るようになる。
北条氏康も信玄と対立したことで、謙信と和睦を模索し始める。
信玄を牽制する意図もあり、北条との和睦を受諾する。
謙信は北条と和睦したことで、本格的に北陸諸国の平定に乗り出す。越中国に乗り出し、金山城を落としたものの、信玄が上野国へ侵攻した為、帰国。
1571年、ふたたび越中国へ出陣。富山城や松倉城、守山城を落城させるも一向一揆などの抵抗もあり、一向一揆との戦いは熾烈を極めることになる。
その後、北条氏政からの支援要請があり、関東に向かう。
しかし、1571年に北条氏康がこの世を去ると後を継いだ氏政は謙信との同盟を破棄して、信玄と再び和睦した為、再度北条氏と対立することになる。
1572年、利根川を挟んで、武田・北条両軍と対峙(第一次利根川の対陣)。
さらに加賀一向一揆と組んだ越中一向一揆の攻勢が頂点に達する。その一向一揆と野戦で圧勝すると、年内にこれを制圧した。そして、信玄と対立する織田信長と同盟を締結した。
1573年に宿敵・武田信玄が病没すると、越中国などの武田氏の影響力が薄くなり、謙信は越中国の各城を攻略し、加賀国まで足をのばし、越中の過半を制圧した。さらに飛騨国にも力を伸ばした。
その間、北条氏政が上野国に侵攻していた。後ろの憂いを無くす為、関東に出陣。諸城を落とし、利根川で再び北条氏政と対峙(第二次利根川の対陣)。しかし、増水していた利根川を渡ることは出来ず、越後国へ帰国。
織田信長との戦い
1576年、毛利氏の元に身を寄せていた足利義昭が反信長網を作り、謙信はそれに参加し、信長敵対している本願寺顕如と手を組んだ。本願寺顕如は謙信を悩ませていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けた。
1576年、越中国へ侵攻して、一向一揆支配下の富山城・栂尾城・増山城・守山城・湯山城・蓮沼城を次々に攻め落とし、越中を平定した。
その上、謙信は能登国へ侵攻し、熊木城・穴水城・甲山城・正院川尻城・富来城を次々に攻略、難攻不落の七尾城を苦心しながら落とすと、末森城も攻略して能登国を平定した。
七尾城攻略の際に織田信長が七尾城から救援依頼を受けており、柴田勝家を総大将とする羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀・前田利家・佐々成政ら3万余の大軍が上杉軍に向かって侵攻していた(秀吉は柴田勝家とケンカして退却している)。
しかし、織田軍は既に七尾城が陥落していることを知らなかった。
織田軍が手取川を越えて加賀北部へ侵入したことを知るや、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下。加賀国へ入って河北郡・石川郡をたちまちのうちに制圧し、松任城にまで進出した。
七尾城の陥落を知った織田軍は、退却を決意。謙信はそれを追撃して、撃破している(手取川の戦い)。
最後
1577年、春日山城に帰還し、次の遠征に向けて準備していたが、遠征の6日前に急死した。享年49歳。養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかをはっきりと発表していなかったため、その死後『御館の乱』が勃発し、血で血を洗う内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えることとなる。
戦の天才
生涯で約70の戦闘を行い、大きな戦いでの敗戦は一度もなかった。あまりに強すぎた為、ほとんどの敵は籠城作戦を取っている。
戦上手で知られる北条氏康も、謙信相手には野戦を挑むことはほとんどなかった。
上杉軍の強さは、謙信の死後も、織田信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった。
商売も天才
衣料の原料となる青苧を栽培し、日本海ルートで全国に広め、財源とするなど、領内の物産流通の精密な統制管理を行い莫大な利益を上げていた。謙信の代になって越後の民衆の生活水準が劇的に向上しており、民を慈しむ優秀な領主であると評されている。謙信が死去した時、春日山城には2万7140両の蓄えがあったと言われる。
軒猿
合戦では情報を得ることを重視し、軒猿(担猿)という忍者の集団を擁していた。平時においても出羽三山・弥彦山・黒姫山の山伏も諜報組織に組み入れていたことが知られている。
女性関係
生涯不犯(妻帯禁制)を貫いたため、その子供は全員養子だった。しかし、恋物語はいくつか残されており、敵方の娘との恋や関白の近衛前久の妹との恋などが伝えられているが、悲運な話で終わっている。謙信自身が女性説と言った俗説や、ホモだったという説もあるが、上洛した際に遊郭に通ったという逸話も残っている。
慈悲深い
謙信に2度も謀反を起こした家臣の北条高広を2度とも許し、本庄繁長の謀反時も同様に帰参させている。また謙信に対し幾度も反乱を起こした佐野昌綱に対しても、降伏さえすれば命を奪うことはしなかった。
武田信玄との関係
信玄との生涯に亘る因縁から、2人の間に友情めいたものがあったのではないかと言われている。
1567年に信玄が今川家との関係が悪化し、今川領から仕入れていた塩を止められたことがあった(信玄領は内陸の為塩が取れない)。
謙信はそれを知り、今川の行為を「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、信玄に塩を送ったという逸話が残っている。
この時、感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩留めの太刀)は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。
また、信玄が死んだと食事中に伝え聞いた謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したと言われている。
その上、信玄の死後3日間、城下の音楽を禁止している。
また、「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。
また信玄も謙信のことを「日本無双之名大将」と評価していた。
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