武田信玄


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武田信玄

戦国時代の甲斐国の守護大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。
戦国最強の声が高く、越後国の上杉謙信と5度に亘り川中島で戦ったことでも有名。

甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大した。「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎とも呼ばれる。

出生

甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。
信玄の父・信虎が甲斐国を統一し、1519年には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府し、家臣団組織が整備され戦国大名としての地位が確立されていた。

信玄は、その父が甲斐国を統一した達成期に出生し、要害山城か積翠寺で生まれたとされている。

1533年に扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘を嫁に貰うも、出産の際に母子ともに死去している。

1536年に元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の名を貰い、「晴信」と改める。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。

父・信虎は次男の武田信繁を可愛がり、信玄を疎んでいたと言われている。
しかし、1541年に武田家の重臣である板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによって信玄の父・信虎は駿河を追放され、信玄が武田家第19代目の家督を相続する。

信濃国平定

父の時代は武田家は相模の後北条氏と対立していたが、他とは同盟関係を結んでいた。

しかし、信玄は家督を継ぐと、信濃の諏訪氏と同盟を破棄し、信濃への侵攻を行うようになる。

1542年、信玄は訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している。
高遠頼継と信濃を分割して、東半分を支配していたが、西半分を支配していた高遠頼継が武田方に攻め込んで来た為、これを撃退して西半分も支配し、信濃国の諏訪領を掌握する。

信玄はさらに、信濃国長窪城、高遠城、福与城を滅ぼした。
父が対立していた後北条氏とは1544年に和睦し、さらに今川氏と後北条氏との対立も仲裁して両家に大きな「貸し」を作ることに成功している。

後方の関係が安定したことで、信玄は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。志賀城の笠原清繁を攻め、小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。

しかし、1548年の上田原の戦いでは村上義清に敗れ、宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。
しかし、その後の小笠原軍との塩尻峠の戦いでは、小笠原軍を撃破している。

1550年に小笠原領に侵攻すると小笠原長時は村上義清の元へ逃げ、信濃の小笠原領は信玄の支配下に落ちた。
勢いに乗った信玄は、村上義清の支城である砥石城を攻める。
しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。信玄の生涯で最大の負け戦と言われている。

しかし、1551年、武田軍配下・真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、、1553年には村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。
こうして東信濃も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。

ライバル上杉謙信

川中島の戦い

1553年、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、川中島で対決することになる。

この時は、信玄の先鋒を上杉軍に撃破され、上杉軍が武田領内に深く侵攻するも信玄は決戦を避ける。その後、両軍ともに撤退した。

信玄は1554年に後方の憂いを完全になくすために。今川家と後北条家と甲相駿三国同盟を結ぶ。

1555年にもう一度、川中島で上杉謙信と対陣している。

1561年の4回目の川中島における上杉謙信との戦いは最大規模の戦いとなり、武田方は信玄の実弟である武田軍副将武田信繁をはじめ武田家重臣諸角虎定、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。

第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。

1564年にも上杉軍と川中島で対峙するも衝突することなく終わっている。

外交方針の転換

川中島の戦いと並行して信玄は西上野侵攻を開始し、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。

しかし、業正が1561年に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、1566年には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した。

その後、桶狭間で今川義元が織田信長に敗れると、武田と今川の同盟関係には緊張が生じ始める。

1568年には、遠江割譲を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始し、薩垂山で今川軍を破り今川館を一時占拠する。
後北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。

さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、家康は今川氏と和睦し侵攻から離脱した。

こうした状況の中で信玄は信長・将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、上杉氏との和睦が成立した。

さらに信玄は常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北関東勢力との同盟を結び後北条領国へ圧力を加え、小田原城包囲を行い、撤退の際には三増峠の戦いで北条勢を撃退した。

遠江・三河侵攻

1568年には、織田信長が上洛を果たしたが、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。

ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。

信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、1571年、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。

信玄は小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。

後北条氏は信玄との対立を模索するも武田方に圧倒され、1571年には北条氏康が「謙信との同盟を捨て、信玄と同盟し直せ」と遺言して死去する。

北条氏政は、氏康の遺言を実行し、武田方との同盟再締結に転じ、甲相同盟が再締結された。

この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。

怒涛の西上

信玄は、徳川家康とは対立していたが、信長とは有効な関係を続けていた。

しかし、1571年の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図っている。

天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願している。

1572年、仏法の庇護者でもある信玄は、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。

武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁(信友)の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め行った。

信玄率いる本隊は浅井・朝倉らに信長への対抗を要請し、徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。

一方、信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が武田軍に寝返ってきた。

これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。

家康は、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。

さらに武田軍は、遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。

劣勢に追い込まれた家康は浜松に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし遠江三方ヶ原において、信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。

信玄は信長と対陣していた朝倉義景の敗退を知り、軍勢の動きを止め刑部において越年したが、1573年には三河に侵攻し、野田城を落とした(野田城の戦い)。

信玄の死

信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。

このため、信玄は長篠城において療養していたが、遂に甲斐に撤退することとなる。

しかし、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53。

辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。

信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

エピソード1

武田軍の強さは、長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった。

エピソード2

躑躅ヶ崎館に、水洗トイレを設置している。躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき上流の者が水を流す仕組みである。

「三ツ者」と「歩き巫女」

信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いていた(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせた。このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称されたという。

信長が恐れていた

ルイス・フロイスの「日本史」によれば、武田氏は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。

信玄堤

山梨県甲斐市竜王にある堤防。信玄が築き上げ、河川の流れを変え開墾した。

武田四天王

武田四名臣とも言われる。信玄・勝頼を支えた馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信の4人を指す。

武田二十四将

江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになり、信玄の名は広く知られることになった。この種の群像では主君を入れないのが一般的だが、武田二十四将には家臣が23名しか入らず、信玄自身が二十四将の一人に数えられていることが最大の特徴である。


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