奥州藤原氏

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平泉藤原氏(奥州藤原氏)

都をしのぐ都と言われた平泉

世界遺産に登録された平泉の文化を作ったのが、東北地方を治めていた平泉藤原氏です。

前九年の役・後三年の役の後の1087年から源頼朝に滅ぼされる1189年までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族です。

平泉藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となります。
戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。半ば独立国であった。

最近は、勢力圏が奥州のみにとどまらないため、近年の学界では平泉藤原氏という呼称が一般化しているので、当サイトでは平泉藤原氏とします。

出自

藤原秀郷の子孫

初代・清衡の父である藤原経清は大ムカデの退治で有名な、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫にあたる人物で、朝廷側の人間でした。

しかし、清衡の母は東北地方の有力な豪族で、当時朝廷と対立していた安倍頼時の娘でした。

その経清は、亘理地方に荘園を経営するなど勢力を伸ばし、阿部氏一門の南方の固めとなっていました。

平泉藤原氏以前の東北

東北地方は弥生時代以降も続縄文文化や擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南とは異なる歴史を持っていた。

中央政権以降も、俘囚と呼ばれた蝦夷(えぞ)系の人々と関東以南から移住して来た人々が入り混じって生活していた。

前九年の役

11世紀半ば、陸奥国には安倍氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していました。

安倍氏、清原氏はいずれも俘囚の流れを汲む、言わば東北地方の先住民系の豪族であった。

このうち安倍氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義が介入して足掛け12年に渡って戦われたのが前9年の役である。

前九年の役はその大半の期間において安倍氏が優勢に戦いを進めていたが、最終局面で清原氏の加勢を得ることに成功した源頼義が勝利した。

この前9年の役の阿部氏の当主が、藤原の清衡の嫁の父である安倍頼時でした。

その頼時が前9年の役で戦死し、その息子も戦死して、阿部氏は滅亡しました(1062年)。

初代・藤原清衡の父・藤原経清も前9年の役で阿部氏についた為斬首されたが、母(安倍頼時の娘)は敵方の清原家と再婚することになり、その息子であった初代・藤原清衡も清原家の養子となり、清原清衡を名乗った。

後3年の役

1083年、清原家の頭領の清原真衡に対して、初代・清衡とその異父弟の清原清原家衡が組み内紛が発生する。

この内紛に源頼義の嫡男であった源義家が介入し、清原真衡の死もあって一旦は清原氏の内紛は収まることになった。

ところが義家の裁定によって清原氏の所領の6郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承されると、しばらくしてこれを不服とした家衡が清衡との間に戦端をひらいてしまった。

義家はこの戦いに再び介入し、清衡側について家衡を討った。
この一連の戦いが後3年の役である。

真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。
清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。これが奥州藤原氏の始まりである。

奥州支配

清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。
その為、朝廷は平泉藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認した。

平泉藤原氏は、中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかった。

そのため奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、平泉藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立する事になる。

また、1105年には平泉に最初院(後の中尊寺)、1124年には中尊寺金色堂が建立された。

2代目・基衡

清衡の2代目となる子基衡は、院の近臣で陸奥守として下向してきた藤原基成と親交を結ぶ方針をとった。

基衡は、基成の娘を後継者の3代目秀衡の嫁に迎え入れ、院へも影響を及ぼした。

1117年に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。

3代目・秀衡、4代・泰衡

秀衡は平治の乱で敗れた義経を匿い、1185年には頼朝に追われた義経を再び匿った。

秀衡は頼朝からの引渡要求を拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず、1189年に義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡す事で頼朝との和平を模索した。

しかし、関東の後背に独自の政権があることを恐れた源頼朝は、義経を長らく匿っていた事を罪として奥州に出兵。家臣の造反により藤原泰衡は殺され、平泉藤原氏は滅んだ。


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