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唐入り

明への出兵

「唐入り」とは、1592年から1598年にかけて、豊臣秀吉が主導する遠征軍と明(支那)が朝鮮半島を舞台にして行われた戦争。この国際戦争は16世紀における世界最大の戦争とされる。
明の後、インド、西欧にまで攻め込むつもりだったと言われている。事実、当時世界を征服する勢いだったイスパニア王に来日を要求、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に朝貢と服属を要求している。

一度目の遠征を「文禄の役」、二度目の遠征を「慶長の役」と言い、共に目的を達成したが、三度目の遠征は秀吉の死により実現されなかった。「唐御陣」ともいう。

明征服を計画した理由

秀吉が明を征服する事を計画した理由は、かつて仕えた織田信長の支那征服構想を継いだとも、武士や足軽の人数が過剰になっており将来の内乱や反乱を誘発する可能性を憂慮したためとも、国内の統一戦争の延長として考えていたとも言われている。また、明より先のスペインを視野に入れての行動だったとも言われています。スペインの驚異を取り除く為に、スペインより先に明を先に落としておこうとしたのではないかと考えられています。

武器・装備

当時秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた軍隊が50万人はいるとされ、明と並び世界最大の軍隊であった。また、鉄砲は50万丁以上所持しており、世界最大の保有国でもあった。

文禄の役

圧倒的勝利

1592年に始まり1593年に休戦した。
舞台となった朝鮮半島では、人口の大半は農奴や奴隷であった為に、李氏朝鮮政府から完全に民心が離反していた為に、日本側に協力する民衆が続出した(宣祖実録、鶴峯集、ルイス・フロイスの著書)。

動員数

9軍団に分かれた総勢158,000人で、その内の2軍団21,500人は予備として、それぞれ対馬と壱岐に駐屯した。これに諸隊(播磨三木の中川秀政ほか)の12000人、水軍9200人、石田三成ら奉行7200人が後詰めとして名護屋に在陣し、渡海軍と待機軍とを含めると、総計187100人であった。(ただし、これは諸大名に課された動員定数であって、実際はその8割程度だったと言われている。また、その半数弱が水夫などの非戦闘員だったので、実際の戦闘員は8万人強だったと推測される。)

明側の兵力

祖承訓率いる5,000人、李如松率いる秋水鏡を含む43,000人が参戦し、さらに碧蹄館の戦い後に5,000人が増援として新たに到着した(ルイス・フロイスは伝聞だが明軍を「少なくとも20万人」と記載している)。
また、その属国である朝鮮の兵力が172,400人と22,400人の非正規軍と合わせて194,800人が参戦したとされる。

戦闘

明が到着するまでの間、朝鮮軍と戦ったが開戦直後から朝鮮軍は日本軍に大敗している。
当時、朝鮮の文官・柳成龍が「(将軍が)百人いても誰も兵の訓練方法を知らない」と嘆くほど腐敗しており、軍隊は組織が緩み、兵士はほとんど訓練されておらず、装備も貧弱で、普段は城壁などの建設工事に従事していた。

4月7日に戦闘を開始し、釜山鎮の戦いに勝利、東莱城の戦いでは2時間で東莱城を落城させる。尚州の戦いを勝利し、弾琴台の戦いで朝鮮軍の名将との誉れ高い三道都巡辺使・申リツを破る。申リツは戦死。
この時点で4月28日と半月程度しか経っていなかった。

5月3日には、首都・漢城を落とし、朝鮮国王は逃亡した。
漢城に入城した際には、漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却していたし、王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡していた。
漢城の住民は、朝鮮王を見限り、日本軍に協力する者が続出した。ルイス・フロイスも、「(朝鮮人たちは)恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録している 。
景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(奴隷の一種)は身分台帳を保管していた掌隷院に火を放ったとあり、多くの奴婢がその身分から解放された。

5月18日、金命元率いる朝鮮軍は開城を防衛すべく臨津江に防衛線を張るが、日本軍は臨津江の戦いで朝鮮軍を撃破し、5月29日、開城を制圧する。

小西行長が率いる一番隊が北進し、黄海道の平山、 瑞興、鳳山、黄州を占領し、さらに平安道に入って中和を占領した。中和にて黒田長政率いる三番隊が一番隊と合流し、大同江の北岸にある平壌へ進軍した。
日本軍の進撃が平壌に迫ると朝鮮国王はまたも逃亡し、明に救援を要請した。
7月22日には、朝鮮軍を破り(大同江の戦い)、7月24日には既に放棄されていた平城に入った。

別働隊の加藤清正らは、海汀倉の戦いに苦戦するも勝利すると容易に吉州、明川、鏡城を占領した。
7月23日には、会寧に入り、そこで加藤清正は、既に地元住民らによって捕らえられていた二人の王子と咸鏡道観察使柳永立を受け取った。
転戦の後、日本軍は内政につとめた。清正は咸鏡道北部の地質の悪さと物産の少なさを見て、明川とそれ以北には寝返ってきた朝鮮人に管理させるなど、一部地域に朝鮮人の自治を認めた。
その少し後、朝鮮軍の兵士の一団が無名の朝鮮の将軍の首を差し出し、更に韓克誠将軍も縄で縛って差し出した。

さらに毛利吉成が率いる他の別働隊も、7月に漢城を出発して東へ向かい、朝鮮半島東岸の城を安辺から三陟まで占領した。その後、内陸へ向かい、旌善、寧越、平昌を占領し、江原道の都であった原州に駐留した。
ここで毛利吉成は民政を行い、日本に準じた身分制度を導入し、更に国土調査を行った。
そして、春川を占領して江原道での作戦は終了した。

全羅道制圧に向かった小早川隆景率いる別働隊は、錦山において朝鮮軍を破るが、南下する明軍の攻撃に対応するため小早川隆景は漢城に向かった。残った軍勢に朝鮮軍は夜襲をかけるが、日本軍はそれを見破り、大勝している。

日本軍の進撃があまりに早い為、明軍は朝鮮軍が日本軍を招き入れていると疑い、朝鮮軍を詰問している。

水軍の戦い

ゲリラ活動による局地戦で日本軍は損害を多く被る。
海岸移動を行っていた日本輸送船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍91隻艦隊が攻撃、海戦を想定していなかった50隻の日本輸送船団は昼夜戦で15艘が撃破される(玉浦の戦い)。
これは、開戦以来朝鮮軍が成し遂げた初勝利であった。

また、朝鮮水軍81隻艦隊が赤珍浦にいる日本輸送船13隻を攻撃、日本船11隻は撃破される(停泊中の無人の船)。その後、泗川浦海戦において、日本船が李舜臣により13隻撃破される(すぐに船を捨て陸地へ逃げた為死者はゼロ)。陸地からの砲撃により、李舜臣は左肩を負傷する。

唐浦海戦では、亀井茲矩率いる日本軍が敗れた。
海戦用の水軍を持たなかった日本軍は、輸送部隊から急遽水軍を編成して対抗するも脇坂安治の水軍は抜け駆けで単体で戦った為もあり、閑山島海戦で敗北する。

これにより、日本軍は海戦の不利を悟って、出撃戦術から水陸共同防御戦術へ方針を変更した。
その2か月後の釜山浦の戦いでは、これが功を奏し、李舜臣率いる朝鮮水軍を撃破した。朝鮮水軍は鹿島万戸・鄭運が戦死するなど損害を多く出した。

この敗退を契機に以降、朝鮮水軍の出撃回数は激減し、朝鮮水軍のゲリラ活動は沈静化した。

明軍参戦

7月16日に明軍が到着し、明軍5000兵が平壌を急襲したが、これを撃破する(第一次平壌城の戦い)。
明軍の参戦を受けて、日本軍は、諸将の合議の結果、年内の進撃は平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとなった。

一方、明軍は平壌戦の敗北という事態に、日本軍に講和を提案。
以降、日本と明との間に交渉が持たれる事になる。8月29日に、沈惟敬と小西行長との間で50日間の休戦が約束された。

碧蹄館の戦い

1月6日、名将軍として誉れ高い李如松の軍は総兵力4万3,000人で、小西行長が1万5,000人で守る平壌城で戦うが、小西行長は平壌城を脱出する。明軍は精騎3000人で追撃を開始、日本軍は360余が討たれた。

1月26日、宇喜多秀家が指揮する日本軍4万と明軍が激突。一大決戦となり日本軍が勝利した。明軍の総司令官・李如松はこの戦いで危うく討ち死に寸前まで追い込まれたが、平壌まで退却した。2月12日の幸州の戦いでは、1日目の攻撃を耐えられたものの、朝鮮軍は城を放棄した。

日本・明講和交渉

漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ、窮した日本軍は講和交渉を開始する。

この講和で、日本側は朝鮮王子の返還と釜山までの後退、明側は開城までの後退と明から日本に使節を派遣するという条件で合意した。

明側では宋応昌・沈惟敬が共謀し、部下の謝用梓と徐一貫を皇帝からの勅使に偽装して日本に派遣することにした。

一方、日本の秀吉には、この勅使は「侘び言」を伝える者だと報告されていた。
5月15日、明勅使は名護屋で秀吉と会見。秀吉は以下の7つの条件を提示した。

・明の皇女を天皇の妃として送ること ・勘合貿易を復活させること
・日本と明、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと
・朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城を朝鮮に返還すること
・朝鮮王子および家老を1、2名、日本に人質として差し出すこと
・捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬を通じて朝鮮に返還すること
・朝鮮の重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること

石田・小西らは、本国には書き直して報告すればよいと進言。
6月28日に小西行長の家臣内藤如安を答礼使として北京へ派遣することとした。7月中旬、釜山に戻ってきた勅使に朝鮮の二王子が引き渡された。

一方、明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の降伏を示す文書が必要だと主張。小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年の12月に北京に到着した。

交渉決裂と再出兵

秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていた。
これは日明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為である。しかし、1596年9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。

慶長の役

再度出撃

1597年の講和交渉決裂によって始まり、1598年の秀吉の死を受けた日本軍の撤退を持って終結した。
和平交渉が決裂すると進攻作戦が開始される。作戦目標は、「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもので、作戦目標の達成後は仕置きの城(倭城)を築城し、在番の城主(主として九州の大名)を定めて、他の諸将は帰国するという計画が定められた。

動員数

141,500人が動員されたとされる。

明側の兵力

『宣祖実録』は、最大動員となった蔚山・泗川・順天の三方面同時反攻の際の兵力を水軍を合わせ92,100人としている。

全羅道・忠清道掃討戦

李氏朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令したが、度重なる命令拒否のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任に元均が任命された。朝鮮水軍を引き継いだ元均も攻撃を渋ったが、ついに7月に出撃を行った。
しかし攻撃は失敗し、その後の漆川梁海戦は日本軍の大勝となり朝鮮水軍の幹部指揮官、元均、李億祺、崔湖を戦死させ、軍船のほとんどを撃沈して壊滅的打撃を与えた。

海上から朝鮮水軍の勢力を一掃した日本軍は、翌8月、右軍と左軍(及び水軍)の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。
黄石山城の戦い、南原城の戦いに勝利し、全州城に迫ると、ここを守る明軍は逃走し、8月19日無血占領する。
これにより、明軍の組織的防衛力は瓦解し、全羅道・忠清道を瞬く間に占領した。

その後、北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍であったが、結局南下しての抗戦を決意し、稷山で遭遇戦となり、明軍を水原に後退させた(稷山の戦い)。

稷山に日本軍が進出すると、朝鮮では漢城を維持できる状態になく、朝臣たちはわれ先に都を出て避難することを献策した。
こうして日本軍は秀吉の作戦目標通り全羅道・忠清道を成敗し、さらに京畿道まで進出すると、慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄の役の際に築かれた城郭群域の外縁部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)に、計画通り新たな城郭群を築いて恒久領土化を目指した。城郭群の完成後は各城の在番軍以外は帰国する予定で、翌1598年中は攻勢を行わない方針を立てていた。

水軍

海上では、朝鮮水軍の残存艦隊を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が率いて全羅右水営に拠っていた。
李舜臣は、西進していた日本水軍を、9月17日鳴梁海峡で迎え撃ち、これに痛打を与えると速やかに退却した。

この鳴梁海戦の翌日、日本水軍は朝鮮水軍の去った全羅右水営を占領する。
さらに、日本の陸軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は拠点を失い、李舜臣も全羅道北端まで後退し、日本水軍は全羅道西岸まで進出した。

蔚山戦役

築城を急ぐ日本軍に対して、明軍は攻勢をかける。
12月22日、完成直前の蔚山倭城を明・朝鮮連合軍5万6,900人が襲撃し、攻城戦を開始するが、日本軍がこれを撃退する。これにより、大きな損害を被った明・朝鮮連合軍は強襲策を放棄し、包囲戦に切り替える。
1月4日、水陸から明・朝鮮連合軍を攻撃敗走させ2万人の損害を与えて勝利した(蔚山城の戦い)。
日本軍の各城郭では、城の増強工事、火器の増強、兵糧の備蓄が進められ強固な防衛体制が整えられていった。

各城郭の防衛体制が整うと、九州衆が城の守備のため6万4千あまりの軍勢を朝鮮半島の在番として据え置き、7万の四国衆・中国衆と小早川秀秋は、予定通り順次帰国して翌年以降の再派遣に備えた。

秀吉死去

秀吉は1599年に大軍を再派遣して攻勢を行う計画を発表していた。しかし豊臣秀吉は8月18日に死去。
その後、五大老や五奉行を中心に撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。

9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路に分かち、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出た。

第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
泗川の戦いでは島津軍7000が数で大きく上回る明・朝鮮連合軍を迎撃。島津軍が大勝した。
順天城の戦いでも、日本軍が勝利し、以後、明・朝鮮連合軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなる。

この三城同時攻撃では、明・朝鮮連合軍が動員した総兵力は11万を超え、前役・後役を通じて最大規模に達していた。また兵糧や攻城具も十分に準備してのものであったが、全ての攻撃で敗退した。
これにより、三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたという。

戦争の終結

蔚山、泗川、順天への攻勢を退けた日本軍であったが、8月に秀吉が死去して以降、幼児の豊臣秀頼が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力をめぐる対立が顕在化し、政治情勢は不穏なものとなっており、もはや対外戦争を続ける状況にはなかった。
そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令された。

10月下旬、帰国命令を受領した小西行長は、明軍との交渉により無血撤退の約束を取り付け、人質を受領して撤退の準備に取り掛かっていた。
ところが、秀吉の死は明・朝鮮側も知るところとなり、明・朝鮮水軍は後退せずに海上を封鎖した。

小西軍の脱出が阻まれていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘、立花宗茂、高橋直次、寺沢広高、宗義智らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津義弘、立花宗茂らの救援軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行い、両軍は11月18日夜間、露梁海峡において衝突する。
この露梁海戦で、明水軍の副将、ケ子龍や朝鮮水軍の三道水軍統制使の李舜臣を含む複数の幹部が戦死した。

日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征は成功に至らぬまま、秀吉の死によって終結した。

明史の総評

この戦争について『明史』に「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」と記されている。

戦後

日本は断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、朝鮮側に通信使の派遣を打診し、朝鮮側の通信使が上洛して伏見城で会見している。

明は日本と国交を結ばないまま滅亡し、明に代わって支那を支配するようになった清は、すでに日本が鎖国を取ったため貿易は行うが、正式な国交を持とうとはしなかった。

朝鮮はその後、その清により攻められ(丁卯胡乱)降伏する。
朝鮮は王族を人質として差し出すが、清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた際に朝鮮はこれを断り、清は12万の軍で朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。朝鮮側は45日で降伏し、朝鮮は以後、清の属国となった。
朝鮮国王は清皇帝に対し、三跪九叩頭の礼をし、清皇帝を公認する誓いをした(大清皇帝功徳碑)。

清への服属は日本が日清戦争で清に勝利し、朝鮮が清の冊封体制から離脱する1895年まで続いた。

その他

鼻削ぎ

慶長の乱以降には、戦功の証明として一揆をおこした民衆の「鼻削ぎ」が行われた。鼻の数で戦功が計られ、削がれた鼻は軍目付が諸大名から受け取り、塩漬けにしたうえで日本に送られ、のちに耳塚にて弔われた。

日本兵の捕虜

朝鮮軍に投降し捕えられた日本の将兵は当初すぐに処刑されていたが、1591年10月に勝手に殺す事を禁じる命令が出された。砲術や剣術などの技能を有する者は訓練都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得が図られた。これにより日本の火縄銃の技術が朝鮮に伝わることとなった。

唐辛子の伝搬

唐辛子が文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。また軍事面では、多くの火器の製造・運用技術が日本人から伝わり、刀剣類についても日本刀を原型とした倭刀等の派生武具が作られた。

外国の評価

ケネス・スオープ米ボールステート大準教授(中国軍事史)は、「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」「『明軍は弱い』というイメージは明を倒した清により作られたもので、当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界最強の軍団。両者の激突は16世紀世界最大の戦争だった」と述べている

沙也可

加藤清正の配下として朝鮮に渡ったが、3000人の兵士と共に投降して朝鮮軍に加わり、火縄銃の技術を伝えて日本軍と戦ったとされる人物。
朝鮮では金忠善として知られ、韓国においては英雄扱いされているが、その活躍の実態は不明な点も多い。

『朝鮮王朝実録』や『承政院日記』のような信憑性の高い史料にも記述があることから、当時沙也可と呼ばれた日本軍からの降伏者が実在したことは確実視されている。

しかし、日本に該当する亡命武将が見当たらないことや、加藤清正勢1万人にあって、3000人もの直属の兵を率いるとなると加藤清正の所領20〜25万石のうち6万石相当の禄高を有する有力家臣がいたことになるが、そのような地位に在った人物が上陸からわずか1週間後に寝返ったというのはあまりにも現実離れしている。

小説家の司馬遼太郎は、沙也加は「サイカ(雑賀)」のことではないかと推理している。確かに雑賀衆は、文禄・慶長の役にも参加しており、またかつて信長を苦しめた鉄砲隊で知られる土豪でもあり、後に秀吉によって攻められた恨みがあるということまで考慮すると、「沙也可が3000人」を「雑賀衆が300人」と言い換えることで辛うじて現実味が有ると主張できる。
また、別の記録から金忠善という名前のうち「善」の字については以前から名乗っていた可能性を示唆する記述があり、また日本側の記録でも雑賀衆に鈴木善之という名前の人物が確認できる。


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