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大阪の陣

豊臣家滅亡の戦い

大坂の陣は1614年の「大阪夏の陣」と1615年の「大阪冬の陣」からなる江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦いである。両陣をあわせて大坂の役(おおさかのえき)とも称する。

経緯

秀吉死後

豊臣秀吉の死後、豊臣政権の五大老である徳川家康の影響力を強め、1600年の関ヶ原の合戦を石田光成を破ると、家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。
この際、豊臣家の直轄地は65万石にまで削がれた。

家康は1603年に伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開き、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。
そして、1605年には家康は子どもの徳川秀忠に将軍職を譲り、豊臣秀頼に対して臣下の礼を取るように高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求するなど友好的対話を求めた。
この時、淀殿は会見を拒否し両者の関係は悪化するが家康は松平忠輝を大坂に遣わし融和に努めている

江戸幕府との対立

家康は秀頼と京都の二条城で会見し、徳川家と豊臣家の関係は融和したものと思われた。
しかし、1607年から14年にかけて豊臣恩顧の大名が相次いで亡くなると豊臣家の孤立はいっそう強まり、その焦りからか幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり、兵糧や浪人を集めだし、更には徳川家に唯一対抗出来る前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。

こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる。

方広寺鐘銘事件

家康の勧めにより、かつて秀吉が建立し地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿を豊臣秀頼が再建することになった。そしてその修営も終わり、その梵鐘の銘が入れられたときになって、家康はその文言に重大な言いがかりをつけたのである。
「国家安康」という句は家康の名を切ったものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、と解釈し、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒したのである。


片桐且元

片桐且元は、豊臣家の家臣でもあり、徳川家の家臣でもあった。
豊臣家は鐘銘問題の弁明のための使者として片桐且元を駿府の家康の元へ派遣するが、且元は家康に会うこともできず、本多正純や(金地院)崇伝といった家康の側近からようやく「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けた。

しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣された。大蔵卿局は家康に会うことが出来、大蔵卿の局が言うには「家康は機嫌よく会い、鐘銘のことには少しも触れないばかりか、秀頼は将軍・秀忠の娘婿でもあるのでいささかの害心もない」と明言したというのである。

淀殿は家康に直接会った大蔵卿の局の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条は徳川氏と示し合わせて豊臣氏を陥れようとするものに違いない、と信じ込んだのである。 こうして淀殿の信頼を失った且元は大坂城を退去するに至った。

しかし、これこそが家康の仕掛けた策謀であったのである。 豊臣氏討伐を目論む家康が、方広寺その他の寺社再建をさせることで莫大な経費を消費させることから始め、且元が復命した報告こそが真の要求であるのに、それを無視して且元を放逐したことは幕府に対する反抗であることに間違いなしと断定、大坂城攻撃を決定するに至るまですべて、家康の描いた筋書き通りに事が運ばれたのである。

大阪冬の陣

豊臣軍

1614年豊臣家では旧恩ある大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。
秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなかった。集まった浪人は訳10万人で、真田幸村や長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)など関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐に燃える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者とバラバラであった。

徳川軍

幕府方の動員した兵力は約20万に上ったとされる。片桐且元、藤堂高虎に先鋒を命じている。

攻城戦

木津川口の戦い、鴫野・今福の戦い、博労淵の戦い、野田・福島の戦いを経て、豊臣軍の数か所の砦が陥落した後、豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。
豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。囲んでいる家康は講和を考え、息子秀忠は攻撃を考えていた。

家康は敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよと秀忠を退けている。
家康は、淀川、大和川を塞き止め、大阪城を干上がらせようとしたり、砲撃により心理的に攻撃をかけた。攻城開始から数日で投降を促す矢文を送り、その数日後から和議に応じるまで、全軍で一斉砲撃が始めた。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿千畳敷に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられ、また芝辻理石衛門が作った大砲が使われた。
この後者は世界的にも珍しい鍛造で作られた鉄製の大砲である。この大砲の実物は現在、靖国神社の遊就館に奉納されている。 その他、6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比例)も含まれていると思われる。この砲声は京にも届き、その音が途切れることはなかった。これに対し豊臣方は近接する徳川方に激しく銃撃したが、劣勢であることは否めず和議に応ずることとなる。(砲撃の1つが本丸の近くへ着弾し、淀殿の侍女8人が亡くなったことにより、淀殿が気弱になったことも要因の1つ)

和議

淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。また、朝廷から後陽成上皇の命により、17日に広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めた。
交渉は徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、誓書が交換され和平が成立した。
同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。

講和内容は豊臣家側の条件として、「本丸を残して二の丸・三の丸を破壊し、外堀を埋める事」と「淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出す事」の2点が提出され、これに対し徳川側は、「秀頼の身の安全と本領の安堵」と「城中諸士についての不問」を約すことで、和議は成立している。

堀の埋め立て

内堀まで埋め立てることは当初からの和議の条件であった。そのため、豊臣方の制止を無視して「だまし討ち的に」内堀まで埋め立てたとする通説は俗説である。
しかし、埋め立てをするのは、二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたのに、両方徳川方が行ったことによって、豊臣側に抗議を受けている。

大阪夏の陣

経緯

和平成立後、家康は京都から駿府へ戻り、秀忠も伏見に戻ったが、一方で国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を行っている。
1615年3月、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。
豊臣方が移封を断ると、「其の儀に於いては是非なき仕合せ」(そういうことならどうしようもない)と答え、諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じた。

この時の徳川方の戦力は約15万5千。豊臣方では、交渉にあたっていた大野治長が城内で襲撃される事件が起こる。交渉が決裂し、再びの開戦は避けられないと悟った豊臣方は、金銀を浪人衆に配り、武具の用意に着手した。一部浪人の解雇や、もはや勝ち目無しと見て武器を捨て大阪城を去るものもが出たため、この時の豊臣家の戦力は7万8千に減少した。

そして、丸裸にされた大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いと判断し、総大将の首を討つ機会のある野戦にて徳川軍との決戦を挑む。 なおこの頃、織田有楽斎は豊臣家に見切りを付けて、大坂城を退去している。

戦国の世最大の合戦

樫井の戦い、道明寺・誉田合戦、八尾・若江合戦を経て、最後の決戦である天王寺・岡山合戦へと移る。
正午頃に開始された天王寺・岡山合戦は戦国の世最大にして最後の戦いであり、これまでに例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となった。

豊臣方の真田幸村・毛利勝永・大野治房などの突撃により幕府方の大名・侍大将に死傷者が出たり、家康・秀忠本陣は大混乱に陥るなどしたが、兵力に勝る幕府軍は次第に混乱状態から回復し態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。絶望的な状況の中、唯一戦線を維持し続けた毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却した。

終局

本丸以外の堀を埋められ、裸同然となっていた大坂城は、もはや殺到する徳川方を防ぐ術がなかった。真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、遂には大坂城本丸内部で内通者によって放たれた火の手が天守にも上がり、深夜に大坂城は陥落した。
翌日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で勝永に介錯され自害した。

冬の陣では出陣させるのは譜代のみに限ろうと考えていた徳川家康は、この夏の陣においては豊臣恩顧の大名に敢えて大坂を攻めさせることにより、将来的に徳川家に掛かってくる倫理的な非難を回避しようとしたとされている(江戸時代に徳川家が豊臣家を滅ぼしたことに対する道徳的議論が起こることはなかった。むしろ徳川家の家臣において、敵将に対する武士道的賞賛が盛んに行われた)。

戦後

戦後、大坂城には松平忠明が移り、街の復興にあたった。
復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降大坂は将軍家直轄となり、『天下の台所』と呼ばれる商業の街になる。幕府は大坂城の跡地に新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の一つとした。

真田幸村

真田丸での戦法

真田丸とは、大阪冬の陣の際、大阪城の外に幸村が築いた出城である。
難攻不落といわれた大阪城も南側だけは敵の侵入を防ぐ川も水堀もない弱点だった。そこに幸村は真田丸をつくり、純粋に真田の兵で固め、戦いの最前線に身をさらしたのである。

真田丸は敵の動きをつかみやすい反面、突出していて攻めやすい場所でも あった。そこに敵を集中させて、集中して出てきたところを引きつけて叩くという戦法をとったのである。冬の陣の徳川方の死者のうち、8割は真田丸の攻防で討たれたといわれる。

日本一の兵

大阪夏の陣の天王寺合戦は島津家の「薩藩旧記」で「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」、「家康が切腹も考えるほどだった」などと記された。

大阪の陣で活躍したのは真田幸村が有名であるが、毛利勝永の活躍もそれに劣らない。真田幸村は徳川軍の中を敵中突破しただけであり、毛利勝永は、自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させたと言われている(『日本戦史 大坂役』)。 また、真田幸村が強行突破できたのは、快進撃を続けていた毛利勝永隊に徳川軍が集中していたのも一因であるとされる。

伝承

秀頼生存伝承

鹿児島県には、「信繁(幸村)は合戦で死なず、山伏に化けて秀頼・重成を伴って谷山(鹿児島市)に逃げてきた」という俗説がある。京都大坂では陣の直後頃に、「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田がつれて、退きも退いたり鹿児島へ」という童歌が流行ったという。

家康討死伝承

「家康は真田信繁(幸村)勢に攻められて逃げる際、後藤基次に槍で刺され、堺のさる寺(南宗寺)に逃げ込んだがすでに息絶えていた」という俗説があり、南宗寺境内には「家康の墓」も現存している。

大坂城攻城法伝承

大坂冬の陣で家康は一旦和睦し堀を埋め立てた後に再度、兵を挙げる事で大坂城を落としているが、この方法は家康が存命中の秀吉に直接聞いたものという逸話がある。


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