第16代仁徳天皇
「聖帝(ひじりのみかど)」と呼ばれた天皇
日本の天皇は古代から今日まで続いています。世界中でも驚かれ、そしてそれは誇れることです。
日本の天皇は、初代の神武天皇以来2600年間、国民を「おおみたから」と呼んでいます。
国民は奴隷として搾取する対象ではなく、宝として大切にするという姿勢です。
仁徳天皇は、その姿勢で政治を行い、困窮者を救い、病者を慰問し、孤児や寡婦を扶助したと「日本書紀」にも書かれています。
このように天皇は国民を慈しみ、国民は天皇を敬愛して、天皇と国民が家族的な感情で結ばれた状態を理想としてきました。それは他の国々には見られない日本独自の伝統です。そして皇室が古代から今日まで絶えることなく続いてきました。
ちなみに仁徳天皇は日本武尊の曾孫です。
皇位継承
父親の応神天皇が崩御され、最も有力とされていた菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と仁徳天皇は、互いに皇位を譲り合い、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が亡くなった為、仁徳天皇が即位することになる(「日本書紀」では皇子は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したとのこと)。実に応神天皇が亡くなられてから、三年後のことである。
民の竈(かまど)の話
民の竈は賑いにけり
仁徳天皇が即位したのは313年と言われています(諸説有)。
宮殿は難波高津宮(なにわのたかつのみや。大阪市中央区)。
屋根も葺(ふ)き直さず、色も塗らず、垂木や柱に飾り気のない質素な建築だったという。
仁徳天皇はこう考えていた。「民は耕作や機織りで忙しい。民を余分な宮殿造りに徴集しなければ、自然に富裕するというものだ」。
即位して4年目に、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられた。
そして、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と向こう三年の租税を免じた。
三年がたって、天皇が三国峠の高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申された。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されましたといいます。
ここまでは、よく知られた話ですが、実は、この話には、さらに後日談があります。
このお話を聞いた諸侯が、「皇宮が破れているのに、民は富み、いまでは、道にモノを置き忘れても、拾っていく者すらないくらいです。それでもなお税を納め、宮殿を修理させていただかないならば、かえって、わたしたちが天罰をうけてしまいます!」と、申し出たというのです。
それでも仁徳天皇は、引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けにならなかった。そして六年の歳月がすぎたとき、やっと天皇は税を課し、宮殿の修理をお許しになったというのです。
その時の民の有様を「日本書紀」は、次のように生き生きと伝えています。
「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。みかど崩御ののちは、和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る。」
民は、仁徳天皇に深く感謝し、誰に強制されるわけでもなく、誰に促されるわけでもなく、自ら進んで、材料を運び、荷物を背負って荒れた皇宮を修理したというのです。それも、昼夜をいとわず、力を尽くし、競い合って皇宮の修理にあたった。ですから、いくばくも経たずに、皇宮は、きれいに治ったのです。
だから仁徳天皇は「聖のミカド」と呼ばれるようになった。
仁徳天皇がお亡くなりになると、人々は、和泉国の百舌鳥野に、御陵を作った。
そう日本書紀に書かれているのです。正式名称は「仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(にんとくてんのうもずみみはらなかのりょう)」という。
日本初の大規模土木事業
なんと仁徳天皇は大規模な土木事業を行っています。
- ・難波の堀江の開削
- ・茨田堤(まんだのつつみ)の築造
- ・山背の栗隈県(くるくまのあがた)での灌漑用水の設置
- ・和珥池(わにのいけ)・横野堤(よこののつつみ)の築造
- ・感玖大溝(こむくのおおみぞ)の灌漑用水の掘削と広大な新田の開発
上記の5つの事業を行ったことが日本書紀に記載されています。
こうした大規模な土木工事とういうものが、誰のために誰がするものなのかといえば、まさに地域に住む民衆のためであり、民衆が働き、民衆が互いに協力し、民衆の真のリーダーがこれを推進する。公共工事としての土木事業は、水害から多くの人々の命と暮らし、そして田畑の作物を守ります。それは要するに、みんなの暮らしが安全で豊かになる、それをみんなで行う、ということです。
世界最大の陵墓「仁徳天皇陵」
世界三大墳墓
仁徳天皇陵はクフ王のピラミッドと秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられます。その大きさは全長486メートルと世界最大の大きさを誇ります。
お墓が出来るまで
民衆は仁徳天皇がお亡くなりになると、その遺徳を讃え、和泉国の百舌鳥野に、御陵を作ったとあります。
大規模な古墳が平野部に集中していることから、古墳が出来たとされるのに、1つの説があります。それは、地元の土木工事の結果である。
堤防や、新田開発、灌漑用水の掘削などの大規模土木工事は、大量の土砂の掘削を伴なう。その土砂は、どこかに積み上げなければなりません。土砂の積み上げと、工事を遂行し、みんなをまとめてくれた大将の遺徳を讃え、みんなで感謝する。その一石二鳥が、古墳という盛土の墓所となったのではないか。そんな説です。
逆にいえば、古墳のあった場所は、古代において、その古墳で使用された土砂をはるかにしのぐ、大規模な土木工事が行われたところである、といえないかという仮説です。
大仙陵古墳という名前について
仁徳天皇のお墓でない可能性があるとの指摘があり、最近の教科書では「大仙陵古墳」となっているみたいです。
大きい山のような形状から「おおやま」つまり「大仙」となったみたいですが、「山」ではなく日本ではあまりなじみのない「仙」をわざわざ使い、「占領」をイメージさせるような意図が見え隠れします。
しかし、1684年の「堺境」と言う書物では、江戸時代の初期にはすでに当古墳が「仁徳天皇陵」と記載されているということと、日本人のルーツにも関わる大事な問題なので、このサイトでは仁徳天皇陵という名前で統一します。
発掘調査
1872年に堺県令税所(さいしょ)篤等による発掘が行われている。石棺の周辺から、甲冑・鉄刀、硝子坏・太刀金具が出土しました。この時の図などの記録の大半は関東大震災により焼失したためほとんど残っていない。
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