農民から天下統一を果たす
三英傑の一人
農民または足軽出身だった秀吉は、織田信長の元で出世し、信長死後は関白太政大臣にまでなって天下統一を果たす。その後、支那を制圧に向かい、当時支那を治めていた明と朝鮮半島で戦う。その戦の途中に志半ばでなくなっている。しかし、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評されている。
幼少時代
秀吉誕生
1537年に愛知県名古屋市で、木下弥右衛門の子として産まれたとされている。身分の低い出であったとされているが、木下という姓を持つことからも、ある程度地位のある農民(豪農、名主)であったと考えられている。(木下は嫁の「ねね」の家の姓だっという説もある。)
織田信長に仕える
1543年に父・木下弥右衛門がなくなると、母の「なか」は竹阿弥と再婚したが、秀吉を虐待したため家を出る。
その後針売りなどの行商を得て、17歳ごろに松下家の家臣となる。松下家は今川家の配下だったので、秀吉は最初今川家の家臣として働く。そこで秀吉は武芸・兵法・学問などを学んだとされている。松下家で秀吉はその才能をかわれていたとも言われているが、同僚に妬まれ、松下家は惜しみつつも秀吉に路銀を渡して追い出している。
その後、織田信長に仕えている。
ちなみに松下家は、その後秀吉が長浜城主になった際に秀吉の家臣になっている。
頭角を現す
織田信長に小者として仕えた後、清州城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。
また、逸話として信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長に喜ばれたというものがある。
1561年、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚する。当時とすれば珍しい恋愛結婚だった。
一夜城
蜂須賀小六との出会い
蜂須賀小六は終わり北東部を拠点にしたの武士の棟梁で「川並衆」と呼ばれる約2000人を率いていた。美濃の斎藤氏に協力したり織田氏に協力したりする独立勢力であった。
この蜂須賀小六の全面協力を得て、1561年墨俣に一夜城を築くのである。
その後、観音寺城の戦いで功績を上げ、信長上洛の際には京都の政務を任されている。
1569年に大友氏と戦っている毛利元就の後ろから山名氏と尼子氏が挙兵した。その山名氏の背後を脅かすよう毛利氏から信長に要請があると、信長はこれに応じて秀吉を大将とした軍2万兵を派兵した。秀吉はわずか10日間で18城を落城させた。
金ヶ崎の退き口
1570年信長の越前国朝倉義景討伐軍に従軍。順調に進行を進めていくが、金ケ崎付近を進軍中に盟友であった浅井長政が突然裏切り、信長は絶体絶命の危機に陥る。
秀吉は難しいとされる殿軍を務め功績を上げた(金ヶ崎の退き口)。
姉川の戦い後には横山城の城代に任ぜられ、小谷城の戦いなどで浅井、朝倉との戦いで大功をあげている。
飛躍
1573年、浅井氏が滅亡すると、その旧浅井氏の領土だった今浜の地を「長浜」と定め、長浜城主となる。
この頃、家内で有力だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉)。秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などの有望な若者を積極的に登用した。
1575年長篠の戦い、1576年霧山城を落城と功績を上げる。
しかし、1577年上杉謙信と対峙している信長配下柴田勝家への救援を信長に命じられるが、勝家を仲違いをし、無断で帰還してしまった。その後、柴田勝家は上杉謙信に敗れている。
織田信長は秀吉に激怒したが許され、その後織田信忠指揮下で松永久秀を滅ぼし、功績を挙げる。
中国攻め
その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨国に進攻し、黒田官兵衛より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。一部の勢力は従わなかったが、上月城の戦いでこれを滅ぼす。
1579年には、大名宇喜多直家を服属させ、中国地方の雄・毛利輝元との争いを有利に進めるものの摂津国の荒木村重が反旗を翻したことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。
1580年には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃し、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。同年、但馬国の山名氏の勢力を従える。
その後、鳥取城を兵糧攻めで落城させたが、毛利輝元との戦いは続いた。
1582年の高松城の水攻めの際、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。このように中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮されている。
信長の死
1582年6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において、信長の重臣であった明智光秀の謀反により死去した(本能寺の変)。
このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。
秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日に山崎において秀吉と戦った。兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は落武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。
秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。その会議で織田家筆頭家老の柴田勝家と対立した。信長の遺領分割において、筆頭家老の柴田勝家が近江長浜12万石の加増だったのに対し、秀吉は28万石の加増と勝家を勝った。
柴田勝家との対立
賤ヶ岳の戦い
秀吉と勝家の対立は、日増しに激しくなっていった。
1582年10月に勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。
これに対して秀吉は10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行うことで切り抜けている。
12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。
秀吉は柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を降伏させ、美濃に侵攻し、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。
1583年1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。
また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興・山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢であった。
2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。
これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。
この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。
さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。
4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。
4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。
秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。
こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、実質的に織田家中を牛耳ることになった。
徳川家康との対立
小牧・長久手の戦い
1584年、信長の次男・織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。
このとき、信長の盟友で、天正壬午の乱を経て東国における一大勢力となった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて四国の雄・長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。
これに対して秀吉は、調略をもって伊勢の諸将を味方につけ、さらに去就が注目されていた美濃の池田恒興をも味方につけた。その池田恒興は信雄方の尾張犬山城を攻め落とし、伊勢においても秀吉方の蒲生氏郷・堀秀政らが峰城を落とすなど秀吉側が優勢だった。
しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出た。羽黒に布陣していた森長可を破ったのである(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。
秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。
このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。
そのような中、前の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲され、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまった(長久手の戦い)。
こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀野井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄・家康を尾張に封じ込めようと画策してゆく。
また、信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。
家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分がなくなり、三河に撤退することとなった。
家康は次男・於義丸を秀吉の養子(=人質)として差し出し、「羽柴秀康(のちの結城秀康)」とし講和した。この戦いの最中の10月15日、秀吉は初めて従五位下左近権少将に叙位任官された。
秀吉の官職は、織田家を凌駕することになり、実質的な「秀吉政権」が誕生した。
また、信雄との和議後は自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなった。 そして、このときから、自ら創出した豊臣姓の授与が始まる。その後、秀吉は家康に対しては融和策に転じ、妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。
家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。
このとき、井伊直政・榊原康政・大久保忠隣など多くの家康家臣が豊臣姓で叙位任官されている。
関白太政大臣秀吉誕生
1583年、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に「三国無双の城である」と称えられた大坂城を築く。その後、紀伊を平定し、四国を統一した長宗我部元親をも平定した。
元親は土佐一国のみを安堵されて許された。この四国討伐の途中に秀吉は関白の宣下を受けた。
さらに翌年、太政大臣に就任、ここにその政権を確立した(豊臣政権)。
この間、越中の佐々成政の討伐(富山の役)を開始し、越中も平定している。
九州征伐
その頃九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。
関白となっていた秀吉は停戦命令を発したが、九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになる。
1586年に、配下武将の混合軍で島津家久と戦うが、大敗する(戸次川の戦い)。
だが、1587年には秀吉自らが、弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久を降伏させる(九州征伐)。
バテレン追放
九州攻略の際、領民の強制的なキリスト教へ改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、秀吉は日本イエズス会準管区長でもあったガスパル・コエリョを呼び出し問い詰めた上で博多においてバテレン追放令を発布した。
しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。
聚楽第を構える
1587年、平安京旧大内裏跡(内野)に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え聚楽第(じゅらくだい。じゅらくていとも。)と名付ける。
1588年4月14日には聚楽亭(聚楽第)に後陽成天皇を迎え華々しく饗応、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。 同年には中国地方の毛利輝元が上洛し完全に臣従した。さらに、刀狩令や海賊停止令を発布、全国的に施行した。
小田原征伐
1590年に関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。
小田原城は堅城として知られるが、3か月の篭城戦の後に北条氏政・北条氏直父子は降伏した。
北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。
これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。
天下統一
後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。
毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった有力大名は滅ぼすことはできず、臣従させるにとどまった。徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった。伊達氏のように戦をする事なく臣従させた例もある。
これら有力諸大名の処遇が、豊臣政権の課題となった。
支那の大国・明への遠征
秀吉自身は「唐入り」という呼称を用いていたが、朝鮮においては文禄の役を「壬辰倭乱」、慶長の役を「丁酉倭乱」と呼ぶ。支那においては「朝鮮之役」などと呼ばれる。
明軍と朝鮮半島を舞台にして戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大の戦争とされる。
この戦は明の先にいる世界最大の国スペインを見据えた秀吉の東アジア支配体制への挑戦でもあった。2度の遠征での目標は達成したが、3度目の遠征前に秀吉が亡くなり、明を征服することは出来なかった。朝鮮半島での戦闘によって、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊し、後に滅亡する一因となった。
文禄の役
1592年、明の征服を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を出兵させた。
明軍と朝鮮半島で戦い、有利に進めていたが、漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ、窮した日本軍は明軍と講和交渉を開始した。
慶長の役
1596年、明との間の講和交渉が決裂し、再度明討伐軍を編成する。
秀吉は慶長の役の作戦目標を「全羅道を悉く成敗し、忠清道・京畿道にもなるべく侵攻すること、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を定め、その他の諸将は帰国させる」として再出兵の号令を発した。
1597年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。
京畿道に進出後、第一次蔚山城の戦いで大勝し、防衛体制を整えると7万余の将兵を本土に帰還させ慶長の役の作戦目標は完了した。
秀吉は1599年にも大規模な軍事行動を計画していたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった。
スペインへの使者
当時世界を制する大帝国のスペインに対し、秀吉は「日本に対して臣下の礼を取れ」と申し出ている。
1591年9月、秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
対するスペイン総督府は、すでに無敵艦隊が消滅し、海軍力を大幅に低下させていた為、日本に対して報復的処置をとれるだけの力はなく、放置されます。
すると秀吉はその翌年に明に対して出兵しています(文禄の役)。
スペイン総督府日本が明を征服して、ルソン島のスペイン総督府に日本が攻めて来ることを危惧し、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町です。
さらにスペイン総督府は、同年7月に、ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けます。このとき、膨大な贈物も持参しています。
しかし、秀吉はスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじく、スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、マニラにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ、断れば日本はマニラに攻めこむと脅します。
この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。
コポスの遭難の為、秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
返書がないからと、秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせます。
ゴメスは、スペインに日本に臣下としての礼をとらせるなど、報告できることではありません。
ゴメスは、時間稼ぎの為、翌1594年4月に、時間稼ぎの為に新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命し、日本に派遣しています。
名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、世界を制したスペインが日本と「対等な」関係を築きたいと譲歩してきます。 しかし、秀吉はペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。
名護屋におけるペドロ・バウチスタ・ベラスケスとの会見も、平行線となったスペインのゴメス提督は、日本との軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。
そして後任の提督としてやってきたルイス・ダスマリニャスは、使者を日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本を調べ、日本とスペインが、東亜で正面から衝突すれば、むしろスペイン側に勝ち目がないことを知ります。
そこでルイスは、秀吉との直接交渉は避け、時間を稼ぎ、その間に、当初の戦略通り、日本に宣教をしていこうとします。 1594年には、ルイス提督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士4人が、日本に派遣され、日本での布教を再開しました。
最期
1598年5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化し、自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼した。
8月18日、秀吉はその生涯を終えた。死後、正一位の神階が与えられた。
神体として祀られたために葬儀は行われなかった。
しかし、1615年に豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と仏式の戒名を与えられた。
朝鮮に対して
神功皇后の三韓征伐の際に、三韓服従の誓約や孝謙天皇による新羅国王への入朝命令などにならい、以前の朝鮮ように高麗(朝鮮)国王は、朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求している。
秀吉の子ども
秀吉は子供が出来にくかったことでも知られているが、長浜城主時代に一男一女を授かっている。
男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名は石松丸、後に秀勝。長浜の曳山祭は秀勝が生まれたことによって生まれたと言われている。
女子の方は名前その他の詳細は一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に次のような銘記がある。「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」これは秀吉が1574年に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている。「御れう人」が秀吉の母・大政所のことだと舎那院で説明されているが、大政所は1592年に76歳で死去しているので年代的におかしい。
その他に、良く知られている鶴松や秀頼などがいる。
猿面冠者
秀吉が容姿から猿と呼ばれたことは有名である。また、秀吉は指が1本多い多指症だったと記録され、信長からは「六ツめ」と呼ばれていた。当時から、多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても六指で生涯を通し、天下人になるまでその事実を隠すことがなかったという。
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