熊野古道

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熊野古道

古代から中世にかけ、本宮・新宮・那智の熊野三山の信仰が高まり、上皇・女院から庶民にいたるまで、多くの人々が熊野を参詣しました。
「蟻の熊野詣」と例えられるほど、多くの人々が切れ目なく熊野に参詣したと伝えられています。
田辺から熊野本宮に向かう中辺路(なかへち)、田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野本宮へ向かう小辺路(こへち)が、「熊野参詣道」として世界遺産に登録されています。
最も多くの参詣者が歩いたとされる熊野参詣道・中辺路。その難行苦行の道のりを終え、最初にたどり着くのが熊野本宮大社。最初に熊野本宮大社を望む「伏拝王子」の名は、やっとたどり着いた熊野本宮大社を伏して拝んだ、との由来からと伝えられています。
主に下の5つの路を指す。

紀伊路(渡辺津-田辺)

紀伊路(きいじ、古くは紀路〈きじ〉とも)は、熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。
淀川河口の渡辺津(摂津国)から一路南下、和泉国を経て、雄ノ山峠を越えて紀伊国に入り、紀伊田辺からは大塔山地周縁部を東進して熊野本宮大社に至り、熊野速玉大社・熊野那智大社を結ぶ。

小辺路(高野山-熊野三山、約70km)

熊野三山への参詣道・熊野古道のひとつ。高野山(和歌山県伊都郡高野町)と熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)を結び、紀伊山地を南北に縦走する。高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから、小辺路は『修験の道』 としての性格をも帯びており、修験宿跡や廻峰記念額も残されていると伝えられている。
しかし、小辺路の起源は、もともと紀伊山地山中の住人の生活道路として大和・高野・熊野を結ぶ山岳交通路が開かれていたものが畿内近国と高野山・熊野を結ぶ参詣道として利用され始めたことにあると考えられている。

小辺路の生活道路としての形成時期ははっきりしないが、小辺路が通行する十津川村・野迫川村の領域に関係する史料には8世紀に遡るものが見られ、また、周辺に介在する遺跡・史資料などから少なくとも平安期には開創されていたと考えられている。

中辺路(田辺-熊野三山)

平安時代から江戸時代にかけて、多くの参詣者でにぎわったといわれる熊野古道「紀伊路」は、京都から淀川を下り、大坂窪津から陸路を南下、和歌山、田辺を経て紀伊山地に分け入り、熊野三山に通じました。このうち、田辺から本宮、新宮、那智に至る山岳路が、のちに「中辺路」(なかへち)と呼ばれるようになりました。
特に平安時代から鎌倉時代に皇族貴族が延べ100回以上も繰り返した「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道(御幸道)となりました。

大辺路(田辺-串本-熊野三山、約120km)

熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道・熊野古道のひとつ。 国の史跡「熊野参詣道」(2000年11月2日指定)の一部として、2002年12月19日に追加指定を受けている。ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』(2004年7月登録)の構成資産の一部。
田辺から那智勝浦を結ぶ海辺の道である。他の熊野古道のルートと同じく、途上に厳しい峠道が控えており、富田坂(とんだざか)、仏坂、長井坂などが知られている。これらの峠道は、近代以降の市街化や道路開発を免れた部分が残されており、旧状が比較的よく保たれている。しかし、こうした部分はむしろ例外で、大半の道は市街地や国道に吸収されており、遺されているのは沿道の寺社や碑柱のような遺構が主である。

伊勢路(伊勢神宮-熊野三山、約160km)

大半が三重県にある。熊野古道の伊勢路(いせじ)とは、伊勢国・伊勢神宮から、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道、熊野参詣道のひとつである。 国の史跡「熊野参詣道」(2000年11月2日指定)の一部として、2002年12月19日に追加指定を受けている。2004年7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部[2]。 古くから、伊勢神宮と熊野三山を結ぶ交通路で『東海道中膝栗毛』にも登場し、「伊勢へ七度、熊野へ三度」と呼ばれる信仰の路であった。


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