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龍神温泉
開湯は約1300年前とされているが、弘法大師による開湯伝説も残っている。また、役小角が発見した後、難陀竜王のお告げによって弘法大師が開湯したとも言われている。
江戸時代には紀伊国を統治した紀州藩とも関わりが深く、藩主が湯治を行うために、初代藩主徳川頼宣が「上御殿」「下御殿」を作らせた。但し、藩主の湯治は実現せず建物は村民に与えられた。上御殿、下御殿はそれぞれ旅館となり、上御殿の建物(国の登録有形文化財)は現在も宿として使われている
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和歌山県田辺市龍神村にある温泉。美肌効果の高い泉質で日本三美人の湯のひとつに数えられる。
■源泉 炭酸水素塩泉(ナトリウム)
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お万と維盛の伝説
屋島の陣をから衛門・嘉門の従卒と共に姿を消した平清盛の孫 維盛は高野山に辿り着いていた。亡父重盛が寵愛していた家臣滝口入道時頼に諭され、 熊野水軍を掌握している法印湛僧に平家側に加担するよう説得すべく田辺に密行しようとしていた道中、切目神社の宮司湯浅宗光から一ノ谷の敗戦、義経の鵯越の逆落としによって陣屋は壊滅したと聞かされ、同 宮司より「法印湛僧の動向はお伝えしますので、今は日高川奥地の在所にて好期をお待ち下され。」と諫言され、維盛は龍神小森に姿を現した。
この在所は1180年頃、落ち延びて来た源頼氏支配の地であり、頼氏の迫害を恐れ、断崖絶壁の小森渓谷を上ること約二里の場所に谷端を切り開き周囲50m程の屋敷を構えたのが1184年の四月であった。
在所からこのお屋敷へ食料や衣服を運び身の回りの世話をしていたのが十九歳の娘お万であった。「 画くとも及びがたき公達なり。」と称された維盛にお万が恋したのは自然だったでしょう。
1185年二月、頼みにしていた熊野水軍は船首に熊野権現の神旗と源氏の白旗を靡かせ屋島に乱入した。法印湛僧は平家を裏切ったのである。
維盛が平家の滅亡を知ったのは同年四月頃であった。 維盛は山頂で護摩木を積み火を放ち行く末を占ったが、一条の煙は突如倒れ地肌を這った。地を這う煙は凶兆を示していた。
維盛は従者の衛門・嘉門兄弟、お万に別れを告げ、屋敷を去り那智の瀧(海という説もある)で自決した。 維盛自決の報を知った従者衛門・嘉門兄弟は瀧から身を投げて自決した。またお万はその翌朝、在所から屋敷へと向かう途中で白粉を流し、清流に紅を溶かし最後には淵に身を投げ捨てました。
その後、里人たちは維盛が護摩木を積んで占った山を護摩壇山、衛門・嘉門が自決した瀧を衛門・嘉門の瀧、お万が白粉を流したところを白壷、紅を溶かしたところを赤壷、身を投げた淵をお万が淵と名付け、現在も伝説として継承されています。(龍神村誌より)
周辺の見どころ
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紀州の屋根、護摩壇山を頂上とする龍神村の山並みは、いまだ雄大な原生林の大樹海をいにしえ人の逸話を数多く残している大自然と伝説の宝庫です。
その恵まれた自然の中、高野龍神国定公園の稜線を走る高野龍神スカイラインは、霊峰高野山と龍神村を結ぶ全長42.7kmの道路です。 このルートからは雲海のかなたに連なる紀州の山々を一挙に展望することができます。またスカイラインの中ほどにある護摩壇山は源平の合戦に敗れこの地に落ち延びた、平家の平維盛が護摩木を焚いてその命運を占ったといわれる伝説の山です。
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