偉人伝
大塚製薬創業者
1921年に29歳で徳島県鳴門市に大塚製薬工場を創立。藍綬褒章、従五位勲四などを受賞されている。戦前は、鳴門の塩業から出る苦汁(にがり)を使った製薬原料を作っていました。終戦後、原料だけでなく自社でも製品を作ろうと医療用の注射液の製造販売を始め、朝鮮特需に乗って規模拡大を果たすこととなります。1964年に息子の大塚正士が社長を引き継ぎグループの総帥になる。1970年9月30日、78歳で死去。主な製品に「オロナイン軟膏」、「ポカリスウェット」、「オロナミンC」、「カロリーメイト」など。
裕福な身でありながら庶民の為に立ち上がった。
大阪府出身でもあるとされる。
江戸後期の陽明学者で大塩の乱の首謀者。父は大阪町奉行所与力(よりき)で大塩家は禄高200石の裕福な旗本だった。
1818年に自身も与力になる。「与力」は今で言う警察機構の中堅である。署長が奉行で、与力は部下の「同心」たちを指揮している。翌年には吟味役(裁判官)となり、裁定に鋭い手腕を発揮した。大塩は20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学の基本精神“良いと知りながら実行しなければ本当の知識ではない”を実践していく。
大塩が吟味役となって驚いたのは、奉行所がとてつもなく腐敗していたことだった。賄賂などで罪が軽くなるなど腐敗しきっていた。その奉行所の中でも、一番の大悪党が弓削という与力だった。弓削が組織していたシンジゲートを内部告発などで壊滅させると3千両という莫大な金銭を貧民への施し金とした。幕府高級官僚が不正に関わっていたがもみ消された為、息子に職を譲り引退した。
1833年に「天保の大飢饉」の大飢饉が起こる。凶作は3年も続き餓死者が20から30万人に達する。1836年、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となり、大塩は時の町奉行・跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)に蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせるなど、米価安定のためのさまざまな献策を行った。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門 (9代)に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけたという。善右衛門が跡部に相談した結果「断れ」と命令されたため、これも実現しなかったとされる。それどころか跡部は幕府への機嫌取りの為、大阪の米を江戸に送り続けた。
大塩平八郎の乱
米価高で甲斐国の「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出る中、大塩は9月にはすでに、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。
跡部良弼に対する献策が却下された後、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、1837年3月25日に門人、民衆と共に蜂起する。
しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧された。
大塩自身は約40日間逃走した後、市内靱油掛町の民家に潜伏しているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放つと火薬を撒いて爆死した。享年44歳。
幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ、反乱の実態を隠し「不届き者の放火騒ぎ」と封印しようとした。しかし、大塩が1ヶ月以上も逃亡したことで、広範囲に手配せざるを得なくなり、乱のことは短期間に全国へ知れ渡った。
乱から2ヵ月後、広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、翌月には越後柏崎で国学者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱)、さらにその翌月には大阪北西部で山田屋大助ら2千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こした。この様な大塩に共鳴した者の一揆や反乱がしばらく続いた。
これらの事件は徳川政権を大きく揺さぶり、幕府の権威が地に落ちていることを全国に知らしめた。
近代薬学の開祖
1845年から1929年に活躍した日本の薬学者。エフェドリンの発見者。日本薬学会初代会頭で、日本の近代薬学の開祖。
経緯
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