長宗我部元親
若い頃は今で言う引きこもりで家臣ともろくに話もできず、色白でもあり、姫若子と呼ばれる。
初陣の直前で戦の仕方を家臣に聞くようなていたらくだったのだが、始まると瞬く間に敵を何人も討ち取る活躍ぶりを見せ、「鬼若子」と称賛された。
土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国の覇者となる。
やがて土佐の出来人と呼ばれるようになるが、織田信長からは鳥なき島のコウモリと称される。四国平定直前で秀吉の弟秀長を総大将とした十万を超える征伐軍と戦い、抗しきれず降伏。土佐一国は安堵される。
麾下の軍は一領具足という半農半兵だった。
関ヶ原前に亡くなっており、息子の盛親が西軍につき家を潰している。
家督相続
1560年に父・国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて初陣する。
遅い初陣であったが、勇猛さを見せ、この一戦で元親の武名が高まり、続く潮江城の戦いでも戦果を挙げる。父の国親が急死すると、家督を相続する。
土佐統一
元親は剽悍な一領具足を動員して勢力拡大を行う。
長浜戦で敗れた本山氏は防戦一方となり、元親はさらに土佐国司の公家大名である一条氏と共同し、本山氏の朝倉城攻めを行う。
この時は敗北するが、鴨部の宮前での決戦の引き分けを挟み、元親が優勢になっていく。
本山氏は朝倉城を放棄して、本山城に籠った。
この年に美濃斎藤氏から正室を迎えている。
本山氏は1564年には本山城を放棄して、瓜生野城に籠もって徹底抗戦するも、1568年に元親に降伏した。
こうして土佐中部を完全に平定した。
さらに、1569年に八流の戦いで安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定。
最後に土佐国司の一条の内紛に介入して一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てた。
こうして元親は土佐国をほぼ制圧した。再起を図った一条兼定を四万十川の戦いで撃破し、土佐国を完全に統一した。
四国制覇へ向けて
土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していく。
阿波・讃岐方面では、信長に敗れて衰退していた三好氏の十河存保や三好康長ら三好氏の生き残りによる抵抗により、思うように進まなかったが、1579年に重清城を奪って十河軍に大勝すると、羽床氏なども元親の前に降伏し、1580年までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。
伊予方面においては、東予では平定に成功するも南予、中予では苦戦し伊予平定は長期化した。
1580年に、信長は長宗我部元親の四国征服を良しとせず、圧力をかけるも元親はこれを拒絶する。
これに対し、信長は神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるなどの危機に陥った。
元親は、斎藤利三宛の書状で信長に対し恭順する意向を表していたが、信長が四国攻撃のその日に本能寺の変によって信長が明智光秀に殺された。
秀吉との対立
1583年、柴田勝家と豊臣秀吉の戦いである賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで豊臣秀吉と対抗する。柴田勝家を破った秀吉は、元親を討つべく、準備をしていた。
その後の徳川家康と豊臣秀吉の戦いである小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗した。
しかし小牧の戦いは秀吉と信雄が和睦するという形で終結した。
その間、伊予の河野氏を降伏させ、1585年までに西予の豪族までも降伏させ、四国をほぼ統一することに成功した。
秀吉に降伏
1585年、秀吉が紀州征伐に出て紀州を平定すると、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。
元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず弟・羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦した。
秀吉は、伊予、讃岐、阿波へと同時に進撃し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。
そして、阿波戦線が崩壊すると元親は秀吉に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。
元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。
1586年、秀吉の九州征伐に嫡男の信親と共に従軍し、島津軍と戦うも島津軍の策にはまって敗走。嫡男の信親が戦死した。
信親の死は相当ショックだったと見られ、元親は信親の死を知って自殺しようとしている。
長男の死によって、英雄としての覇気をすべて失ったとされる。
元親は家督を次男や三男でなく、四男に譲ることを決定する。これに反対する家臣を粛清し、強硬している。
1590年の秀吉の小田原征伐、1592年の文禄・慶長の役にも参加。
1597年、に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定する。
最期
1598年に秀吉が死去すると土佐に帰国。翌年、体調を崩し、5月19日に死去。享年61歳。高知県高知市長浜にある臨済宗妙心寺派高福山雪蹊寺に葬られる。跡を盛親が継いだ。
エピソード1
土佐を統一した1577年に阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語った。住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えた。
エピソード2
家臣に「四国の覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えたとされる。
エピソード3
讃岐の羽床・鷲山で敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、半分は残してやれと命令した。領民は元親に深く感謝したと言われている。
武勇優れ仁慈に厚い名君
信親が死んで変貌する前までの元親には家臣の諫言や意見には広く聞き入れる度量があった。
阿波の勝端城攻略においては上級家臣の意見より下級の一領具足の意見を聞き入れたと言われている。
また情け深く、妹婿の波川清宗が元親に謀反を起こして討たれたとき、弟の次郎兵衛や五郎大夫は助命した。その二人が出奔した時も追わなかった。
また、阿波白地城主の大西覚養が三好氏に寝返ったときも人質としてあった甥の上野介を殺さずに優遇したり、三好康長の子・康俊が父の誘いを受けて寝返ったときも、人質として岡豊にあった康俊の子を殺さずに丁重に送り返して康長に感謝されたりしている。
『元親記』では「律儀第一の人」「慇懃の人」と評され、その他の軍記物でも武勇に優れ仁慈に厚い名君と評している。
一領具足
長宗我部氏が兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成、運用した半農半兵の兵士および組織の呼称。『土佐物語』では、死生知らずの野武士なりと書かれている。
秦の始皇帝の子孫
実在は不明であるが、日本書紀に記述された秦氏の先祖とされる弓月君を先祖とするとされる。
弓月君は、『新撰姓氏録』によれば秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。
孝武王の子は功満王(秦始皇帝十二世孫)であり、その子供が融通王、別名・弓月君である。
日本書紀によれば、弓月君は百二十県の民を率いて応神天皇に帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、加羅が引き受けるという状況下にあった。
そこで新羅の妨害の危険を取り除く為に、日本から精鋭が加羅に派遣され、無事弓月君の民が渡来した。
その後、弓月君は養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。
系図
孝武王−功満王−弓月王−普洞王−酒君−秦河勝−広国−勝俊−克国−俊治−俊仲−俊能−俊雅−春義−行永−永利−恒遠−恒任−義遠−春俊−邦利−重信−重昌−秋友−明友(ここから長宗我部)−能俊−俊宗−忠俊−重氏−氏幸−満幸−兼光−重俊−重−重宗−信能−兼能−兼綱−能重−元親−文兼−元門−雄親−兼序−国親−元親
本能寺の変の黒幕説
斎藤利三は、本能寺の変の明智光秀の腹心だった男。
長宗我部元親はその妹を嫁に迎えてます。
本能寺の変の際、明智光秀の動機の一つに、明智光秀が進めていた長宗我部元親の懐柔策を信長が方向転換して、秀吉が長宗我部討伐に乗り出すことになり、光秀の面目が潰れたということがあります。本能寺の変直前に、元親が利三に送った手紙も発見されています。
本能寺の変で、実際に一番利益を得たのは長宗我部元親であることから本能寺の変の黒幕であるとの説もあります。
何故、長宗我部元親は近くの四国の有力勢から嫁を貰わず、遠くの美濃から貰ったのか。明智光秀との関係、本能寺の変の黒幕なのか、謎は解明されていません。
余談ですが、(長宗我部家の配下だった)坂本龍馬の家紋と明智光秀の家紋は同じ桔梗紋です。明智秀満が守っていた城は坂本城で、光秀は亀山城を築城していたということ、言い伝えとして坂本家に受け継がれていたということから、坂本龍馬は明智秀満の庶子・太郎五郎の末裔という説があります。(明智家が土佐に逃げてきたと思える説)
明智家と長宗我部氏のつながりは深い。
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