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坂本龍馬

明治維新の立役者

坂本龍馬参照
1836年から1867年に活躍した幕末の志士。 土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。

板垣退助

自由民権運動の指導者

1837年から1919年に活躍した政治家。土佐三伯の一人(他に後藤象二郎・佐々木高行)。自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

高知藩主山内豊信の側用人などをつとめるが、藩の公武合体路線と相容れず、討幕派と連携。
戊辰戦争で活躍。明治維新後、高知藩の大参事となり、藩政改革を行う。
1871年廃藩置県を断行。参議となり、岩倉遣外使節団派遣後の留守政府をあずかるが、征韓論が受け入れられずに下野。ともに下野した後藤象二郎らと民撰議院設立建白書を政府に提出。

愛国公党や立志社を設立、自由民権運動の先頭に立つ。自由党の党首に就任。後に第2次伊藤内閣、第1次大隈内閣の内相をつとめた。

板垣信方を祖に持つ

板垣退助は、武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である。元々は乾家に生まれ、乾と名乗っていたが、戊辰戦争の甲州勝沼の戦いの前に「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。この策が講じて新撰組の近藤勇を撃破し、その後に江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があったと言われている。

自由民権運動

板垣退助は征韓論が受け入れられずに下野した後、参議に復帰したが、また辞職して自由民権運動を推進した。そして、自由党を結成して党首となり、全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていた。その際、岐阜で暴漢に襲われ負傷した。板垣は襲われた後に起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。

日光東照宮

日光東照宮に立て籠もる大鳥圭介ら旧幕臣達に対して板垣退助は「先祖の位牌の影に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるであろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得し、また強硬に破壊を主張する薩摩藩に対しては「日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる偏額が掲げられており、これを焼き討ちすることは天皇家への不敬にあたるため回避せられよ」と両者に対して理由を使い分けて説得し、日光山を戦火から守ったと言われている。

吉田茂

戦後日本を守った首相

戦後間もない頃の首相。東大卒。外務省に入り、公使・大使を歴任。戦後、東久邇宮・幣原内閣の外相を経て、昭和21年自由党総裁となり組閣。以後1954年まで五次に至る内閣を組織する。この間サンフランシスコ会議首席全権として対日平和条約・日米安保条約に調印。ワンマン宰相として知られ、引退後も保守本流の元老として政界に巨大な影響力を持った。1967年死去、享年89歳。

内閣総理大臣就任

吉田は外交官として入省後、20年間を中国大陸で過ごしている。その後、事務次官に就任する。

吉田は「親英米派」で、ドイツとの接近には常に警戒しており、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。
太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。

終戦後の1945年、東久邇宮内閣、幣原内閣の外務大臣を歴任。
翌1946年、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員の首相も吉田が最後である。
同年には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。

1947年、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、日本社会党に第一党を奪われた。社会党は吉田続投を企図していたが、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが、次の芦田内閣(芦田が逮捕)と共に長続きはしなかった。

第二次、第三次内閣

GHQ民政局は吉田を嫌い民自党幹事長の山崎猛を首相にしようとしたが、マッカーサーが承認し無かった為に第二次吉田内閣が誕生した。
直後の第24回衆議院議員総選挙で自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。

1949年、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に書簡を送り、共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動に対し、共産主義と戦う手段として、破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が設置・施行されるきっかけを作る。

サンフランシスコ平和条約と朝鮮戦争

1950年に朝鮮半島で朝鮮戦争が始まる。
当時の米国は、できれば直接米国兵士が朝鮮戦争に介入するのではなく、日本に再軍備させ、その日本軍を朝鮮戦争に差し向けたいという明確な意図を持っていた。

吉田茂内閣は、日本の復興が第一の為、戦争の傷跡の残る日本人の若者を、ふたたび戦争に駆立てないために、占領軍が与えた憲法を、金科玉条とし、「あなたがたが日本に与えた憲法に戦争放棄と書いてあるではないか」と、朝鮮戦争出兵を拒否。
ちなみにこの当時、日本共産党は独自に日本共産党軍を北朝鮮側の兵力として独自派遣しています。

朝鮮戦争でアメリカ人の犠牲者が増える中で、日本を参戦させたいアメリカは、サンフランシスコ講和条約を急ぎました。そして、戦争放棄を謳う日本国憲法の破棄を認めます。

しかし、韓国大統領である李承晩はアメリカに助けてもらっているにも関わらず、日本に助けてもらうのを良しとせず李承晩ラインを勝手に引き、竹島を占領し、日本を敵にまわしてしまいます。
日本の朝鮮戦争の参戦を諦めたアメリカは、韓国の反対を押し切り、勝手に北朝鮮と休戦協定を結びます。

朝鮮戦争が終わってしまった為に、日本国憲法を破棄させる理由がなくなってしまいます。これが、占領憲法がいまだに使われている理由の1つです。また、サンフランシスコ平和条約と同日にアメリカと安全保障条約を締結しています。独立達成と日本の安全保障を得た吉田内閣は戦後最高の支持58%を得ます。

その後

サンフランシスコ平和条約締結後は、公職追放を解かれた鳩山一郎グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。
1954年、野党による不信任案の可決が確実となると、内閣総辞職。自由党総裁を辞任。

日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。1967年死去。享年89歳。

人物像

ワンマンであったと知られているが、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。
吉田は典型的な明治時代の人であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。」と語っている。

また、京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたという有名なエピソードが残っている。

安全保障条約

安全保障条約を結ぶと国内の反対派を敵にまわすことになる。ゆえに吉田は日米安全保障条約に一人で著名している。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、無理やりついて来ようとしたが、室内に入れなかった。

保守本流

自民党内に、自主憲法を成立させる吉田路線を引き継ぐ者たちという意味で保守本流が誕生します。しかし、現在においては、その保守本流の中にもあくまで護憲という人たちと、自主憲法制定を求める人たちが混在する曖昧な状態になっています。

岩崎弥太郎

三菱財閥の創始者

1835年から1885年に活躍した実業家。三菱財閥の創業者。

1867年、後藤象二郎に土佐藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。その後、坂本龍馬の海援隊の経理も担当した。

1868年、長崎の土佐商会が閉鎖されると、大阪商会に移り海運業に従事するようになる。廃藩置県後、土佐藩の借金を肩代わりする条件で船を2隻手に入れ「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。

三菱商会は、1874年の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。1877年の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。

政府の仕事を独占し巨万の富を得ると、世論の批判を浴びるようになる。
1882年には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。
三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。それに外国資本まで加わって来たので、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。

ライバルとの競争の最中、弥太郎は51歳で病死した。

弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。現在では日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。

インサイダー取引?

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、後藤象二郎の情報で各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得た。

龍馬と不仲説

弥太郎と龍馬は不仲であったともいわれるが、弥太郎は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。

三菱のマーク

土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせ、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。

ボーナス

日本で初めてボーナスを出した人物である。

娘婿が総理大臣

弥太郎の娘婿4人の中から、加藤高明及び幣原喜重郎の2人が内閣総理大臣となっている。

後藤象二郎

大政奉還の立役者

1838年から1897年に活躍した政治家。土佐藩士。

山内豊信に登用され、藩政の実権を握る。坂本竜馬の公議政体論に賛同し、徳川慶喜に大政奉還を説いた。維新後は新政府内で要職につくが、1873年に征韓論問題で参議を辞任。板垣退助らと民撰議院設立建白書を提出。自由党の結成に加わり、大同団結運動を展開。その後、黒田内閣の逓信相となる。第1次山県、第1次松方各内閣に留任。第2次伊藤内閣では農商務相に就任した。

大政奉還まで

義理の叔父である吉田東洋に学び、その東洋の推挙によって幡多郡奉行となる。
その後、普請奉行となるも吉田東洋が暗殺されるとその任を解かれた。

江戸に出て、大鳥圭介に英語、高橋金兵衛に航海術を学んだ後、1864年に藩政に復帰した。
前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て大監察や参政に就き、公武合体派の急先鋒として活躍した。

長崎で出会った坂本龍馬と深く交わり、1867年、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。その後も大政奉還への努力を続け、山内容堂と共に連署して大政奉還建白書を提出。慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。

明治時代

新政府では大阪府知事や参与、左院議長、参議、工部大輔などの要職に就くが、1873年の征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野する。
その後、板垣や江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民選議院設立を建白する。そして、事業家に転身するも失敗する。1887年に伯爵を授けられ、進歩党結成にも尽力し、黒田内閣や第1次松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣では農商務大臣などを歴任。

1897年薨去。享年60。

山下奉文

マレーの虎と呼ばれた英雄

大東亜戦争時の陸軍大将。大東亜戦争の緒戦において、マレー作戦を指揮する。マレーシアのイギリス軍をわずか55日で降伏させ、「東洋のジブラルタル」、「難攻不落」などと称されていたシンガポールの連合国司令部をわずか1週間で落とし、白人植民地主義の長い歴史を終わらせた。
その後フィリピンの防衛戦を指揮し、終戦後はマニラで連合国軍に軍事裁判にかけられ、シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の罪でBC級戦犯として死刑に処せられた。1959年、靖国神社に合祀された。

二・二六事件

二・二六事件では皇道派の幹部として叛乱軍である決起部隊に理解を示すような行動をした。叛乱軍の青年将校を擁護する山下に対し、天皇や元老の評価は極めて低かった。このように、事件の影響で陸軍の主流派のコースからはずれ、参謀本部や大本営などのエリートポストにつくことは一度もなかった。このように二・二六事件は山下の人生に最後まで大きなマイナスをもたらすことになった。

マレー作戦

山下は、大東亜戦争序盤におけるイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦の指揮を取ります。

山下が率いる日本軍が上陸したタイ領内のシンゴラからシンガポールまでは1,100キロの距離があり、その間には大小250本の河川が流れていました。
イギリス軍はこの250本の橋を破壊して時間を稼ぎ、防備を強化すれば日本軍の進撃を阻止できると考えていました。

日本軍が上陸し、250本の橋が破壊されてましたが、山下率いる日本軍はわずか55日で1,100キロを進撃し、ジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸します。
主要陣地を次々奪取し、ブキッ・ティマ高地に突入。4日ほどの戦闘を経て、イギリス軍が降伏します。

イギリス軍はオーストラリアやインドなどの軍も合わせて88,600人、対して日本軍は兵力3万5千であったが、インド兵などは活の糧を得るためにイギリス軍に入隊したものの、祖国を植民地支配し抑圧するイギリス人のために、祖国から遠く離れたマレーの地で命を投げ出す理由など持ち合わせていなかった。

日本軍は上陸から55日間で、95回の戦闘を行い250本の橋梁を修復しつつ1,100キロを進撃した。
もっと驚くことに、山下指揮の元に、イギリス軍が遺棄したイギリス兵士の遺体約5,000の埋葬も、日本軍は行っています。
この埋葬というのは、米軍が日本兵の遺体を、シャベルカーで掘った大きな穴に放り込んで埋めた、といった乱暴なやり方ではなく、手作業で、一体ごとに穴を掘り、丁寧に埋葬して、丁重な弔いもしています。

マレー半島の戦いで日本軍の損害は戦死者1,793名、戦傷者2,772名。イギリス軍は遺棄死体5,000名、捕虜8,000名を数えた。

シンガポール攻略においては、日本軍の戦死者は1,713名、戦傷者3,378名。イギリス軍は約5,000名が戦死し、同数が戦傷したと言われ、さらに10万人が捕虜となった。
これはイギリス軍史上最大規模の降伏であり、近代のイギリスにおいて最大かつ歴史的な屈辱であった。

フィリピン防衛戦

山下はシンガポール攻略という大きな戦績をあげたが、東條英機から疎まれてその後は満州に配置され、以後は大きな作戦を任されることはなかった。

しかし敗色が濃厚となった1944年に第14方面軍司令官として起用され、日本軍が占領していたフィリピンの防衛戦を指揮することになった。
ダグラス・マッカーサーらの指揮する連合軍に対して善戦するが、レイテ決戦を大本営から強いられ(山下大将は反対していた)、多くの兵力が投入されたが、制海権と制空権を敵に握られていたため輸送船の大半が撃沈された。

つづくルソン島の戦いでは、マニラ湾からリンガエン湾への迅速な陣地転換に成功するが、徐々に兵力差で圧倒され、最終的には山岳地帯へ退いての持久戦に追い込まれている。

1945年、フィリピンのバギオにて降伏した。
日本軍司令部も食糧難に悩まされており、降伏時、巨漢で有名だった山下はすっかりやせ細ってしまっていた。

軍事裁判

降伏時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられる。
シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ、死刑判決を受けた。

山下の罪状の内、シンガポール華僑虐殺事件は、華僑のゲリラの掃討であった。また、もう一つのマニラ大虐殺は、現地のフィリピン人10万人を虐殺したというものである。

しかしこれは、1945年2月3日に米軍第1騎兵師団と第37師団がマニラへ突入した際、山下率いる日本軍と米軍との間で3週間以上の激しい市街戦を行った時に出た死者数である。
しかも、山下はマニラには70万人の市民が残っていたので、市街戦を避ける方針でした。そして米軍の軍の砲撃は、市街地が灰燼に化するほど激しいものでした。

つまりこの裁判は、米軍が行ったマニラ市街の完全破壊による一般市民の犠牲者への責任を、まるごと日本軍に転嫁した裁判でした。

それでも山下は、マニラ軍事裁判の席上、「私に責任がないとは言わない」と、従容として死刑を受け入れます。

この判決には、米陸軍の法務将校らが猛然と反発もありました。 彼らはフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所にまで死刑の差止めと人身保護令の発出を求める請願までしました。しかし米最高裁6対2の投票で請願を却下。山下は、マニラで、軍服の着用も許されず囚人服のままで絞首刑に処せられました。

シンガポール華僑虐殺事件

日本軍がシンガポールを占領した際、シンガポールはアヘン貿易の為のイギリスと華僑の都市でした。
当時日本と戦争をしていた支那の重慶政府はアヘン貿易による利益によって戦争を継続しており、同じく日本と敵対していたイギリスからアヘンの援助を受けていました。

日本はアヘン貿易の制限を行おうとしましたが、アヘン貿易で利益を得ていた華僑勢力はこの日本軍の政策に反発し、イギリスや支那の後押しもあって日本軍に対するゲリラ戦を行いました。
日本軍は敵対したこの多数の中国系ゲリラに業を煮やし、協力者である華僑勢力もろとも連行して大量処刑するという手段を取りました。虐殺とは名ばかりの、ゲリラの掃討作戦の意味合いが強い作戦でした。

永野修身

真の武人と称された元帥

海軍元帥。第24代連合艦隊長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。千葉工業大学の創設者。

日露戦争

仮装巡洋艦香港丸に乗組み後、旅順工作部員名義で重砲隊に転じる。
旅順攻囲戦で海軍陸戦重砲隊中隊長として旅順港に逼塞するロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)の撃滅に参加。旅順艦隊砲撃で、中隊長と身分の高くない永野の意見が取り入れられ、海軍ではそれほどなじみのなかった観測を用いる間接射撃の実現に貢献し成功させた。

これによってロシア太平洋艦隊を旅順港から追い出すことに成功し、黄海海戦のきっかけをつくった。この海戦によって事実上、ロシア太平洋艦隊は壊滅した。

海軍大尉に進級後、日本海海戦に参加。海軍少佐に進級後、アメリカのハーバード大学に留学、帰国後、海軍中佐、海軍大佐、海軍少将、海軍中将と進級して行った、

海軍兵学校長

1928年、海軍兵学校校長就任。
兵学校長時代は、自学自習を骨子とするダルトン式教育を採用、体罰の禁止など、抜本的な教育改革を推進した。これまでの受身一辺倒の兵教育を改め、自主性、積極性、創造性を重視し、個々の生徒が持つ才能や資質、専門性を開花させ、自由に伸ばす方向へと転換させようとした。

その後、1931年ジュネーブ会議全権。1933年横須賀鎮守府司令長官。1934年海軍大将に進級。1935年の第二次ロンドン海軍軍縮会議全権になり、会議において日本の脱退を通告する。

海軍大臣

1936年広田弘毅内閣の海軍大臣を拝命。
三国軍事同盟を回避するため、海軍航空本部長に左遷されていた山本五十六を中央に引き戻し海軍次官に据えて、中央の改革を行い、後の海軍三羽烏(米内光政・山本五十六・井上成美)の礎を築いた。広田内閣総辞職後は、連合艦隊司令長官に転出した。

日米開戦

1941年、軍令部総長就任。
7月21日の連絡会議では、新たに外相に就任した豊田貞次郎から、アメリカが日本に資金の凍結などの経済制裁を日本に対して行うという報告を受ける。これに対して、永野は避戦派であったが、対ソ開戦は絶対反対だが、アメリカとの戦争を避けることが出来ないと考えていた。
今、アメリカと開戦すれば勝利の可能性があるが、来年には困難になり、その後はもっと難しくなると判断しており、アメリカはその軍備増強が出来上がるまで引き伸ばし、そして決着をはかってくると語っている。

7月30日には昭和天皇に上奏し、海軍としては対米戦争を望んでいないが、日米交渉はまとまらず対立関係に入ること、石油の供給を断たれることなどを述べている。

永野はあくまで軍人は極力政治に関わるべきでないと言う信条を持っており、政府に対して、役職柄海軍の代表者として海軍の実情について報告はするものの、政府が決めた方針について賛成も反対もせず、日米戦開戦の時も回避のための行動は公には見られなかった。

1941年9月3日、大本営政府連絡会議にて『帝国国策遂行要領』が決定した。
会議後、永野は

「アメリカの主張に屈服するというのは、日本が亡国の憂き目に遭うということです。
しかし、戦うのもまた、亡国であるかも知れません。

戦わないなら国が滅び、戦ったとしても国は滅びる。
けれど、戦わずに国が滅びるというのは、日本民族が、身も心も永遠に国を失うことになります。
もし戦い、護国の精神に徹するなら、たとえ戦いに勝てなかったとしても、祖国を護るという日本精神が残ります。そうすれば、私たちの子孫は、必ず再起し、あるいは三起する。

統帥部としては、もとよりあくまでも外交交渉によって平和的解決を望んでいます。けれどもし、不幸にして開戦と決し、陛下の大命が発せられるようなことになるなら、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟でございます。」

と述べている。

国策方針

11月1日に行われた連絡会議で、最後の国策方針を決める際、東條首相が慣習に沿って、これまでに挙げられた

・戦争を極力避け、臥薪嘗胆する。
・直ちに開戦を決意、政戦略の諸施策等はこの方針に集中する。
・戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める。

の3案の他にないかと出席者に尋ねた際に永野は、第4案として「日米不戦」を提案しています。
これに対し、東條英機首相兼陸軍大臣は「交渉条件を低下させることはできない」とだけ述べ、第4案はボツとされています。

この時、既に米国政府は日本本土に対する先制攻撃作戦を許可していた。

海軍は、日本周辺に大量のB25をはじめとする爆撃機が配備されつつあること、来年初頭には米陸軍の戦力配備が完了し、打つ手がなくなることをつかんでいた。

結局、第1案は2人、第2案に賛成するものはなく、第3案が採用された。
12月1日の御前会議の結果、日本は大東亜戦争を決意し、昭和天皇によって大命が下された。

大東亜戦争と興亜工業大学

戦中、実務は次長以下に任せ、戦死者の墓碑銘を書く日が多かったと言われている。

1942年には、興亞工業大学を(現在の千葉工業大学)創設。
同校は、西洋主義の模倣した教育を改め、江戸時代までの教育理念と明治から昭和にかけて教育界で培ってきた経験則を融合させた許幾機関を目指して創立された。

戦時下としては珍しく、敵性語として禁止されていた英語教育をはじめ、国定科目からはずされていた中国古典や音楽、道徳などの教養科目の授業が一貫して続けられるなど学問の自由が保障されていた。

海軍反省会によると、永野は戦争不可避という状況下で、苦心しながら作戦指導に当たったとされる。
永野は実際に戦ってみて、日本軍の兵器の殆どが欠陥品・粗悪品で、欧米列強の基礎技術に裏打ちされた技術力の差が歴然としていた上、陸海軍を統制出来る役職、あるいは調整できる人材が存在しないことに気がついた。

日本が戦争に負けた時の為、興亜工業大学を創設、日本再建のために優秀な日本の若者を温存するための処置をとっていた。
大戦期を通じ他の高等教育機関とはまったく異っており、世俗からは極力隔離され、国家枢要を担う人材、世界文化に貢献する人材を養成するための中枢機関となるよう物心共に特別な配慮がなされていた。

1943年5月16日、インド独立の為に来日したスバス・チャンドラ・ボースと面会。

1943年11月5日から11月6日にかけて東京で大東亜会議が開催される。

海軍では海軍のみが戦闘をしているという考えが強くなり、陸兵力の参入をたびたび要求するが、困難であり、永野への不満は高まった。1944年2月、航空機生産に対するアルミニウムの配分で海軍の要求が通らず、永野に対する不満はさらに高まった。

永野は軍令部総長から更迭された。

東京裁判

1945年8月14日、ポツダム宣言を受託するにあたって身辺整理を終え遺書まで書いて自決をしようとするも、海兵同期で、親友の左近司政三に「生きることこそあなたの責任だ」「責任者がこんなにどんどん死んでしまって誰が陛下を戦犯からお守りするのだ、貴様は辛いだろうが生きていろ」と諭され自決を思いとどまった。

アメリカをはじめとする戦勝国に真珠湾作戦を許可した責任を問われ、A級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷するが、裁判途中の1947年1月2日に寒さのため急性肺炎にかかり1947年1月5日に死去した。
永野元帥の死は虐待によるものだと言われている。

永野は裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせず、真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして戦死した山本に真珠湾攻撃の責任を押しつけようとはしなかった。
また、真珠湾攻撃について記者に訊ねられても「軍事的見地からみれば大成功だった」と答えるなど最後まで帝国海軍軍人として振舞った。

この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は真の武人と賞した。

また、ある米国の海軍士官が永野に質問した際、彼は「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」と述べたとされる。

1978年戦死ではなく病死ではあったが、A級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機らと共に法務死として靖国神社に合祀された。

島村速雄

海軍の至宝

海軍大将。日清戦争には常備艦隊参謀として出征。日露戦争ではバルチック艦隊との日本海海戦で第二艦隊第二戦隊司令官として東郷平八郎を補佐した。
のち海軍大学校長,軍令部長などを歴任。その後、大将となる。1923年死去。享年66歳。

連合艦隊参謀

幼い頃から秀才ぶりを発揮しており、16歳のとき、島村の才気を耳にした司法省の役人から養子の誘いがあったが、「男子たるもの、他人の力で出世するのは意気地の無いことだ」として断っている。

海軍兵学寮でも、相変わらずの秀才であった島村は、本科では常に首席であり、「兵学校7期に島村あり」と言われるほど名を知られるようになった。

23歳で兵学校を卒業して海軍少尉補となり、軍艦「扶桑」の乗組員に任ぜられる。その後島村は少尉に昇り、軍艦「浅間」乗務に転任する。
そして独学で砲術を学び、浅間乗務のまま砲術教授となって、大尉に昇進する。

イギリス留学を経て、常備艦隊の参謀に任命される。当時の島村の大尉という階級から考えて、これは異例の大抜擢であった。常備艦隊が改組されて連合艦隊となり、連合艦隊参謀となった。そして、少佐に昇進し、日清戦争で島村は参謀として、連合艦隊旗艦「松島」に乗り組んで参加した。
義和団の乱が勃発すると、大沽に派遣された日本海軍の司令官役として推され、指揮を執った。目覚しい活躍から、英国海軍中将シーモアから感謝のメッセージを貰っている。

日露戦争

義和団の乱が終結すると、日本とロシアの対立がいよいよ鮮明となった。来るべきロシアとの戦争に備えて連合艦隊が再び組織され、東郷平八郎中将が司令長官に任命されたが、島村は幕僚のトップである参謀長となった。

旗艦「三笠」に乗り組み、旅順港封鎖に参加。
連合艦隊は機雷によってロシア海軍の名将ステパン・マカロフを戦死させたが、このときに機雷敷設の指揮をとった小田喜代蔵に対し、作戦の訓令を起草したのは島村であった。

東郷をよく補佐する島村の働きぶりは目覚しく、東京朝日新聞や読売新聞に彼を称賛する記事が大きく取り上げられるなど海軍外にもその活躍は知れ渡ったが、彼は旅順封鎖作戦終了後に参謀長の座を降り、第二艦隊第二戦隊司令官に転任となっている。
また、秋山真之の功績とされているものの中には島村の発案を継承したものも少なくなかったことが最近の研究で明らかになってきている。

転任後は第二戦隊旗艦「磐手」に坐乗して指揮を執ったが、バルチック艦隊をどこで迎え撃つかについて、島村が賛同していた対馬海峡での迎撃案が採用され、日本海海戦での大勝への第一歩となった。

後進の育成

日露戦争終結直後、日本に初めて練習艦隊が正式に組織されることとなり、島村は初代司令官となった。また翌年には海軍兵学校の校長に、1908年には中将に昇るとともに海軍大学校の校長に補されている。数年のうちに海軍士官の育成に関わる重職を三つ歴任したことになり、彼の手腕が評価されていたことが窺われる。

その後、第二艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、海軍教育本部長、軍令部長を歴任し、大将に昇格した。1920年に軍令部長を退き、軍事参議官となった。参議官は閑職であり、以降は穏やかな晩年を送った。

1923年、脳梗塞により死去。享年66。

吉松茂太郎

3度の連合艦隊司令長官

海軍大将。連合艦隊司令長官を3度も務める。

経歴

海軍兵学寮に入校後、フランス留学などを経て、砲艦「大島」分隊長、 巡洋艦「吉野」分隊長などを歴任する。

日清戦争が開戦すると、「吉野」は第一遊撃隊の旗艦となり茂太郎も「豊島沖海戦」「黄海海戦」で活躍した。
西海艦隊参謀に転じ「扶桑」に乗組みとして威海衛攻略に於いて陸軍輸送、援護射撃、敵艦隊の警戒監視の任にあたり少佐に進級。海軍軍令部第1局長などを経験し、「浪速」艦長、「高砂」艦長を歴任。その後、海軍兵学校教頭兼監に補せらる。

日露戦争では、装甲巡洋艦「常盤」艦長として出征し「旅順港閉塞作戦」「蔚山沖海戦」「日本海海戦」に参戦。
海軍少将に進級し、呉鎮守府参謀長、第1艦隊司令官を務めた。
海軍兵学校長になり、中将に昇格。

海軍大学校校長、 竹敷要港部司令官、第2艦隊長官、海軍教育本部長、呉鎮守府司令長官を経て、戦時編成であった連合艦隊が演習などに際し毎年編成される事となり茂太郎は司令長官を三度も歴任した。

海軍大将に昇り、軍事参議官を務め予備役に編入された。退役後は海軍有終会長、山内侯爵家商議員、土佐協会顧問、維新資料編纂委員会委員、坂本龍馬・中岡慎太郎 銅像建立建設会会長などを務めた。

1935年死去。享年75歳。

長宗我部元親

戦国時代の四国の覇者

戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国の覇者となる。
しかし、その後豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。豊臣政権時戸次川の戦いで最愛の息子・信親を亡くすと性格は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去る。

鬼若子

20過ぎても初陣せず、おとなしい気性もあって『姫若子』と家臣に侮られていたが、初陣の長浜の戦いで槍を振るっての大活躍を見せてからは、『鬼若子』と恐れられるようになった。潮江城の戦いでも戦果を挙げ、父の国親が急死すると、家督を相続する。

元親は半農半兵の兵士である一領具足を動員して勢力拡大を行う。
本山氏を破り土佐中部を平定した元親は、土佐東部の安芸氏をも倒し、土佐西部では中村御所と呼ばれていた公家大名の一条氏の内紛に介入して、一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てた。追放された一条兼定が、諸将を率い土佐国に攻め込んできたが、四万十川の戦いでこれを撃破し、土佐国を完全に統一した。

阿波・讃岐・伊予への侵攻

土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻していく。

阿波や讃岐は、三好氏や十河氏が激しく抵抗するも、1579年に重清城を奪って十河軍に大勝し、三好氏からは人質をとって降伏させた。同じ年には讃岐の羽床氏なども元親の前に降伏し、1580年までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。

伊予方面においては、伊予守護の河野氏が毛利氏の援助を得て元親に抵抗したため、元親の伊予平定は長期化することになった。

信長との対立

信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫るが、 元親は信長の要求を拒絶。このため信長と敵対関係になり、信長の助力を得た三好氏や十河氏の反攻を受ける。1582年には、信長の四国遠征軍が編成され、危機を迎えるが、信長の死により危機を脱した。

秀吉との対立

信長の死による混乱に乗じて、阿波国を完全に平定。

秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を組むが、柴田勝家が敗れて滅んだ。このため秀吉は元親を討つべく軍勢を準備していた。小牧・長久手の戦いでも家康側に付き、秀吉と対立した。

1585年、秀吉が紀州征伐に出てこれを平定すると、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず10万を超える軍を派遣。

元親は、戦いに敗れ降伏、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。
元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。

その後

秀吉政権下では、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と従軍する。1599年に体調を崩し、死去。享年61歳。

饅頭

豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。
その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。それを見た秀吉から「その饅頭をどうするつもりか」と尋ねられると、「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます」と答えた。
秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。


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