坂本龍馬

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坂本龍馬

明治維新の立役者

1836年から1867年に活躍した幕末の志士。
土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。

江戸に行く

1835年、土佐藩士(郷士)坂本八平直足の次男として誕生。
幼少期は落ちこぼれであったが、剣術道場に通うようになり素質が開花する。通っていた日根野道場で「小栗流和兵法事目録」を得、 その後、江戸へ剣術修行に出ます。江戸では江戸の三大道場のひとつ桶町の千葉道場の北辰一刀流千葉定吉(千葉周作の弟)に入門。そこで「北辰一刀流長刀兵法目録」を伝授され、塾頭を務めます。

黒船来航

勝海舟との出会い

龍馬が剣術修業を始めた直後に、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航します。(黒船来航)。
その後、尊皇攘夷運動が高まり、武市半平太が結成した「土佐勤皇党」に加盟し、尊王攘夷運動に加わります。しかし、土佐藩は尊皇攘夷より、公武合体が主要な方針であり、土佐勤皇党の尊皇攘夷の主張は藩内の支持を得ることが出来なかった。

その後1862年、坂本龍馬は土佐藩を脱藩します。その後各地を転々とし、龍馬は桶町の千葉道場に身を寄せ、尊王攘夷派であった龍馬は千葉重太郎と共に、開国論者である軍艦奉行並勝海舟を暗殺しようと氷川町の屋敷に向かいます。しかし、勝海舟の話を聞いた龍馬は感銘を受け、その場で弟子入りを志願。門下生となりました。

神戸海軍操練所

その後、龍馬は勝海舟が設立した私塾「神戸海軍塾」の塾頭に命じられます。

1864年に勝海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した。
しかし、熟成の望月亀弥太が池田屋事件に参加していたことや、同じ塾生の安岡金馬が金門の変で朝敵とされた長州軍に参加していたことを問題視され、勝海舟は軍艦奉行を罷免されてしまい、神戸海軍操練所も廃止になった。
勝海舟は、龍馬ら塾生の後事を心配し、薩摩藩に庇護を依頼しました。

亀山社中

龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、1865年に龍馬らに出資し「亀山社中」が誕生。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であった。

亀山社中は、営利目的の他に水と油ほども仲の悪かった薩摩と長州の和解の目的も含まれていた。
土佐脱藩志士の中岡慎太郎は薩摩や長州と組んで、討幕をもくろんでいた。龍馬は長州藩の桂小五郎に会い、薩長同盟の必要性を説き、薩摩藩の西郷隆盛と下関で会談することを承諾させた。同時に、中岡慎太郎は薩摩の西郷を説得し、下関での会談に応じるように説いた。
しかし、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。

薩長同盟

倒幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。

一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。

ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるので、両藩とも自然これに首肯した。

これは亀山社中の初仕事になり、また、薩長和解の契機となった。
1866年京都で、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。その約2週間後、まだ薩長の盟約が成立していないことを知った龍馬は驚愕し、桂に問い質したところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。 そこで、その夜に龍馬は西郷を説き伏せて、薩長両藩は、薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となって列席して、後世、薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。

盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、帰国途中で龍馬に盟約履行の裏書きを要求している。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、龍馬がいかに信を得ていたかがわかる。

寺田屋事件

次の日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。
だがこの時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。

明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。

第二次長州征伐

幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。
下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する小倉藩への渡海作戦で龍馬は最初で最後の実戦を経験した。

長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。
思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり大坂城で病に倒れ、21歳の短い人生を終えた。

このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い幕府軍は撤兵した。

海援隊

その後、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春獄に伝えるよう頼んでいる。これが、龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録である。

また、尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。坂本龍馬に目を付けた後藤象二郎は、龍馬と会談する。結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として亀山社中は「海援隊」と改称した。

いろは丸沈没事件

海援隊結成から程なく「いろは丸沈没事件」が発生した。
海援隊が運用する「いろは丸」が紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法を基に紀州藩側の過失を厳しく追求、さらには紀州藩を批判する流行歌まで流行らせるなどした。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって紀州藩は、賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。

船中八策と大政奉還

その後、後藤象二郎と龍馬は長崎から兵庫へ向かった。
同じころ、京都では、将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春獄・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。
龍馬は船内で政治綱領を後藤に提示した。有名な「船中八策」である。これは、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。

薩摩は討幕の準備を進めていたが、後藤象二郎は二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案し、徳川慶喜は明治天皇に上奏し、勅許が下された。

この大政奉還・上奏の直前に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、討幕実行延期を命じられている。

展望が見えた龍馬は、戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。また、船中八策を元にした、とされる「新政府綱領八策」を起草した。

近江屋事件

龍馬は宿にしていた近江屋で中岡と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。来訪者はそのままに買いに上がって、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬たちは帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近かった。享年33歳。

犯人については「龍馬暗殺」参照。

日本初の新婚旅行

寺田屋事件で怪我をした龍馬は、 西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することにします。龍馬は薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。
薩摩に到着し、83日間逗留した。

二人は温泉療養の傍ら霧島山・日当山温泉・塩浸温泉・鹿児島などを巡った。温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。

龍馬の英雄化

函館戦争が終わった直後に明治政府は論功行賞を行ったが、坂本龍馬には何の行賞も行われなかった。

坂本龍馬は維新後しばらくは注目されることのなかった存在だったが、1883年に高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒』が掲載され、大評判となった事により一躍その名が知られるようになった。

次に龍馬ブームが起きるのは日露戦争時である。開戦直前の1901年、皇后・美子の夢枕に龍馬が立ち、「私が海軍軍人を守護いたします」と語り、皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣田中光顕(土佐勤王党出身で陸援隊幹部だった)が、龍馬の写真を見せたところ、皇后は間違いなくこの人物だと語った。事の真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたため、坂本龍馬の評判が全国に広まる事となった。
庶民の間でも龍馬は維新の偉人として人気者となり、戦前には龍馬や海援隊を主題とした映画が多数製作されている。

さらに、1962年に司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が発表され、司馬の代表作の一つとなるとともに、戦後期における龍馬像の典型が形づくられた。

龍馬の家系

龍馬の坂本家は、5代当主の直寛の時の1897年に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、現在は高知には龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない。また、先祖について龍馬は、紀姓で紀貫之の子孫と称したという。また、明智光秀が坂本龍馬の祖先だという説がある。

明智光秀が祖先説

坂本龍馬の生家である坂本家は、明智光秀の女婿・明智秀満(左馬之助)の庶子・太郎五郎の末裔であるという説である。明智秀満は坂本城を守っていたということと、光秀が土佐と信長のパイプ役であったこと、家紋がいずれも桔梗紋であること、明智光秀が丹波攻略の拠点として「亀山城」と築城していたこと、言い伝えとして坂本家に受け継がれていると言うことから唱えられている。


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