偉人伝
日本の開国を断行した男
近江彦根藩の第15代藩主。
幕末期の江戸幕府にて大老を務め、日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。
第15代彦根藩藩主
井伊直弼は遅咲きで、17歳から32歳までの15年間を、捨扶持の部屋住みとして過ごした後、第14代藩主の兄の養子と言う形で家督を継ぐ。その15年間に、茶人として大成し、和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学び、聡明さを早くから示していた。
藩主に就任すると、藩政改革を行い、名君と呼ばれ、江戸城では溜間詰上席として、将軍継嗣問題と日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す。
黒船来航
1853年に黒船が来航すると、江戸湾防備に活躍。
元々は開国に反対であったが、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」と考え、開国を断行する。それに対し、尊皇攘夷派は開国に反対し、幕府を倒そうと動き始めました。
井伊直弼は日本を二分(開国派と攘夷派)しないために、尊王攘夷派(そんのうじょういは)の処刑にふみきるのである(安政の大獄)。
安政の大獄
第14代徳川将軍の後継者争いで、紀州藩の徳川慶福(家茂)を推す南紀派と一橋慶喜を支持する水戸系の一橋派が対立した。また、米国総領事タウンゼント・ハリスが、日米修好通商条約の調印を江戸幕府に迫っていた。
条約はやむを得ないが、調印には朝廷の勅許が必要と言うことになったが、梅田雲浜ら尊皇攘夷派の工作によって、元々攘夷派の孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。
そんな中、南紀派の井伊直弼が大老に就任し、無勅許の条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行した。
これに反対した水戸前藩主の徳川斉昭を始めとして、梅田雲浜や公家の家臣にまで謹慎、捕縛、処刑などを行った。そして、梅田雲浜と交流があったということで、吉田松陰を処刑した(これが最後の処刑者)。
連座したものは100人以上にのぼった。
桜田門外の変
安政の大獄に先立って、孝明天皇は「戊午の密勅」と呼ばれる密勅を水戸藩に下し、井伊直弼の排斥を呼びかけた。
将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、水戸藩に対し戊午の密勅の返納を催促した。この催促は数度にわたって続けられ、勅を幕府に返納することにした。
ところが水戸藩の士民(特に過激派)が激昂して勅の返納を阻止あるいは朝廷に直接返納すべきとして混乱する。井伊は返納しないと水戸藩を改易するとまで述べたことが、水戸藩氏を憤慨させ、水戸藩浪士と薩摩藩藩士に襲撃を受け首を刎ねられた。
一期一会
一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざで、『あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』と言う意味の、千利休の茶道の筆頭の心得である。
井伊直弼は、これを著書『茶湯一会集』巻頭に「一期一会」という言葉にして世の中に広めた。
天台宗の開祖
天台宗の開祖。先祖は後漢の孝献帝に連なる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。
天台宗
支那の天台宗は、隋の天台智者大師、智(538年から597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。これを805年に伝教大師最澄が唐に渡り、天台教学を受けて帰国し、日本に伝えた。比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。
延暦寺
時の天皇である嵯峨天皇は、最澄が亡くなられた際に大変惜しまれ、延暦という年号を寺名にすると言うことが許されました。それまで比叡山寺だったのが(延暦7年に建てたため)延暦寺と呼ばれるようになり、年号を寺名にしたのは、これが最初です。
関ヶ原の合戦における西軍の主導者
安土桃山時代の戦国大名。豊臣政権の五奉行の筆頭としても知られる。
豊臣秀吉が長浜城の主となった際に父・兄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える。
信長が本能寺で亡くなると、秀吉の側近として次第に台頭していく。
島左近
秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。当時名将として名高かった島左近を知行の半分を与えて召し抱えたと言われている。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。
豊臣政権下
光秀は堺奉行、博多奉行を歴任し、小田原征伐にも参加した。
その後、文禄の役では唐入りの総奉行を務め、明との講和などに積極的役割を果たした。その際、現地と秀吉との連絡役という立場が福島正則、黒田長政などの反発を招いている。
その後、近江7万石、近江佐和山19万4000石が秀吉から与えられた。
秀吉の命令により、キリシタン弾圧を行うが、捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたといわれている。
第3次の唐入り時に福島正則らと大将になる予定だったが、秀吉が没した為に実現していない。
秀吉死後
秀吉死後に豊臣政権は豊臣秀頼が継いだが、徳川家康が次第に台頭していく。
家康に匹敵する勢力を持っていた前田利家が病死すると、豊臣政権は家康を抑えきれなくなっていった。
前田利家の病死直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件がおきる。
家康の仲裁により、和談が成立するが、光成は五奉行から退隠させられる。前田利家病死・三成の蟄居により、家康の専横は活発になっていった。
関ヶ原の合戦
1600年7月、三成は家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図り、家康が会津征伐に向かった際に挙兵した。
大谷吉継を説得し仲間にした後、諸大名の妻子を人質として大阪城内に入れる為軍勢を送りこんだ。しかし、加藤清正の妻などには逃げられ、細川忠興の妻・ガラシャには自殺された為、人質作戦は中止された。
毛利輝元を西軍の総大将として大阪城に入城させ、家康配下の鳥居元忠の伏見城を苦戦しながらも落とし、諸大名に参集を呼びかけた。
三成は、大垣城に入り美濃で家康を食い止める予定が、家康が戻ってくるのが思ったよりも早かったのと、味方の小早川秀秋が思いがけず松尾山に陣取った為に、関ヶ原で家康に決戦を挑むことになった。
当初は優勢であったが、小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は逃走して伊吹山に逃れたが、その後捕まり、斬首された。
大一大万大吉
三成が使っていた家紋。「大一大万大吉」というのは「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる一方、近代以前にその意を示した文献はなく、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものともされる。
無双の才覚
太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。世の人々が三成を「無双の才覚」と讃えていたと言われている。
三杯の茶(三献茶)
伊吹山の観音寺に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。
まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな知恵配り・心遣いに感じ入った秀吉は彼を家来として採用した。
それが後の石田三成である、という逸話がある。
大谷吉継との友情
秀吉の茶会で、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。
らい病を患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出た膿が茶に落ちてしまった。
以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干した。それ以降二人の間には一層深い友情が生まれたという。
関ヶ原の合戦では、家康には勝てないと分かっていながら、三成に頼まれた為、三成側に立って家康と戦った。
人物
関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国の古橋村に身を潜めた。
その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。
与次郎はこの時、徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。
三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。
徳川軍を代表して三成の捜索に当たっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える、逆に三成を匿った場合には当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。
織田四天王の一人
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。甲賀の里出身の忍者だったという説もある。 鉄砲の名人。
「先駆けは一益、殿(しんがり)も一益」と言われるほどの勇将
織田家においては伊勢方面の攻略を担当。信長の次男信雄とともに北畠氏討伐など。1574年には、伊勢長島の一向一揆を討伐、殲滅。伊賀攻めにも功を上げ、北伊勢五郡を支配。蟹江城と兼ねて、長島城主にもなり、信長の重臣の座に加わる。武田攻めには先鋒として参加。武田勝頼を天目山に破った功で、上州および信濃の二郡を与えられ、厩橋城(前橋)に移り関東管領を号す。信長の五人の軍団長の一人にまで数えられる。
信長の死
信長が本能寺の変で打ち取られた際、一益の重臣たちが信長の死を隠して京に向かうことを促したが、関東諸将の人質をすべて返し、信長の死を打ち明けて、反勢力である北条氏と戦った。
しかし、関東管領になってから3か月しかたっておらず、信長の死で部下も浮き足立っており、北条に敗北する。
伊勢に逃げ帰った時は、信長の跡目を決める清州会議が終わっており、決定的に出る幕を失った。
1583年、柴田勝家、織田信孝らと組み、羽柴秀吉と戦ったが、一益自身は篭城し孤軍奮闘したものの、勝家が敗北したため降伏する事となる。
秀吉に許され、近江5千石に封じられた後は、小牧・長久手の戦いで秀吉につき、伊勢と尾張に兵を挙げ、家康軍と戦った。しかし蟹江城を包囲され、降伏。これを恥じて出家し、亡命。1586年、不遇のうちに越前で死去。62歳。
近江北部一帯を治めていた戦国大名
妻は織田信長の妹、お市の方。わずか29歳で死去した、近江の名君である。
当時の浅井氏は六角善賢に従属していたが、六角氏から独立。その後は六角義賢を相手に戦い、これを撃退し領土を広め、名君の片鱗を見せ始める。
また長政は織田家と同盟を結び、信長の妹であるお市の方を妻にした。
しかし信長が同盟の条件を破って朝倉氏を攻め始めると、長政は長年親しかった朝倉を重視し、織田との同盟を捨てて金ヶ崎で信長を攻めた。これは信長にとって非常に意外だったようで、命からがら金ヶ崎より逃げ延びている。
その後、両軍は姉川にて対決。長政は織田軍の13段の構えのうち11段を破る猛攻を見せたが、結局は織田・徳川軍に敗北している。
その後浅井家は反信長包囲網に加わり、毛利・武田・朝倉・一向宗勢力らと共に信長を苦しめることになるのだが、それぞれの勢力の足並みが揃わないうちに武田信玄が病死し、朝倉家は一乗谷に滅んだ。
1573年、織田軍は浅井の本拠地である小谷城を取り囲んだ。長政はお市や娘達を逃がすと、父と共に自害した。享年29。辞世は伝わっていない。
最初の遣隋使
飛鳥時代の政治、外交家。名は「妹子」とあるが 男性である。
607年に聖徳太子の命令によって、遣隋使として支那にわたった。国書を隋の皇帝にわたし、日本と支那が対等の関係で国交を開こうとした。一時は流刑にさらされるなどされたが、のちに恩赦により、復活をはたしている。なお、608年にも再び隋にわたった。
聖徳太子が隋に送った手紙
聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙はあまりにも有名です。【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…)これを読んだ隋の煬帝は激しく怒ります。
日本を「日の出る国」、支那を「日が落ちる国」と表現したこと、もう一つは支那皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を「日出処の天子」と使ったことです。
聖徳太子にしてみれば、隋と初めて交易を持つ際に、隋と対等の関係でいきましょうという意味が込められていたと言われています。
華道の祖
小野妹子は、聖徳太子の守り本尊でもある如意輪観音を守るよう命ぜられ、坊を建設して朝と夕、毎日仏前に花を供えました。これが池坊流のはじまりとされ、華道の祖とも言われています。
近藤勇が欲しがった名刀
虎徹とは、江戸時代の刀工。同人が作った刀剣の名でもある。本名は、長曽禰興里(ながそねおきさと)。元々、甲冑師であり、刀工を行っていた際に虎徹と名乗っていた。50歳を超えてから刀工に転じ、老いるほどに輝きを増した異色の刀工である。
虎徹の切れ味
虎徹は斬れ味が良いことで誠に有名であり、近藤勇などが欲しがったと言われる。懐宝剣尺、古今鍛冶備考などの刀剣書には、最上大業物に列せられており、一説には斬れ味においては全刀工一とあり、それを記した辞典も存在する。
刀剣の業物一覧では、最上大業物12工にランクインしている。
伊藤忠商事、丸紅の生みの親
日本の商人、実業家。伊藤忠商事・丸紅という2つの大手総合商社を創業し、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成した。
“足で稼ぐ”をモットーとする近江商人の家に生まれた伊藤忠兵衛は、11歳から行商に出され、麻絹布の「出張卸販売」で成功。30歳で大阪本町2丁目に呉服・太物店を開いた。
忠兵衛は近江から招いた羽田治平を支配人として、合理的な経営法を志した。
画期的な褒賞制度をつくって、販売成績のよい者に歩合を出すことにした。
1884年頃から現金取引を主義とした・英国、ドイツとの外国貿易に取り組むなど数々の斬新な経営手法を打ち出し成功させた。
伊藤忠財閥の二代目当主、二代目伊藤忠兵衛(1886〜1973年)は16歳で事業を継承。
父である初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した「伊藤忠兵衛本店」を発展させ、「伊藤忠商事」と「丸紅」という2つの総合商社の基礎を築いた。
会津若松の生みの親
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。また、キリシタン大名でもある。
蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。
信長は氏郷の才を見抜いたとされ、将来自分の娘の冬姫を娶らせる約束をし、約束通り娶っている。
1568年の北畠具教・具房との戦いで初陣を飾り、姉川の戦いを得て、第一次伊勢長嶋攻めの直前に柴田勝家の与力となり、参戦。鯰江城攻めと朝倉攻め、小谷城攻め、1574年の第二次伊勢長島攻め、1575年の長篠の戦い、1578年の有岡城の戦い、1581年の第二次天正伊賀の乱などに従軍して、武功を挙げている。
信長が本能寺の変で敗れると、安土城にいた信長の妻子を保護している。
その後は秀吉に仕え、伊勢松ヶ島12万石。秀吉の元でも手柄を立て続け、1586年に従四位下・侍従に任じられる。その後、1588年には松坂城を築城、城下町を築いた。同年、正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓を下賜された。
1590年に、伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(日野町村井)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来する。
7層の天守を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。城下町の開発も実施し、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。
1592年の文禄の役の際に体調を崩し、1595年に病死した。享年40歳。
起き上がり小法師
会津名物の「起き上がり小法師」は、義父・信長のだるま信仰に倣い、氏郷が広めたと言われている。
天下への野望
小田原征伐後、陸奥92万石を与えられたとき、氏郷は広間の柱に寄りかかり、涙ぐんでいた。
近くの者が感涙だと思い、「お気持ちはよく分かります。大変な御出世ですから。」と言ったら、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ。それが悲しいから涙が出てきたんだ。」と激しく嘆いたとされる逸話が記されている(『常山紀談』)。
足利幕府の立役者
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。
一般的に佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や京極道誉の名で知られる。実名は佐々木高氏。
源頼朝に、伊豆幽閉時代から付き従った佐々木兄弟の子孫。
佐々木家は鎌倉期に二家に分派し、道誉はそのうちの「京極家」で、本家筋は「六角家」。
ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。
婆娑羅とは
ばさらとは、日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。
身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった名ばかりの時の権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。
鎌倉幕府滅亡
佐々木 道誉は1314年に左衛門尉に任官。更に1322年に検非違使に補任され、1324年には従五位下・佐渡守に叙任されている。
当時、元寇により、鎌倉幕府の権威が低下していた。
時の執権である北条高時は病気を理由に出家して執権を降りてしまいます。佐々木 道誉は、それにただ一人付き合って出家します( 道誉を名乗り始める)。
1331年、元弘の変が起こり、後醍醐天皇が鎌倉討伐を図り、笠置寺に遷幸されて挙兵します。
これに対し鎌倉方は、兵を差し向ける一方で後伏見天皇の皇子・光厳天皇を即位させます。
楠木正成等の奮戦も空しく、後醍醐天皇は鎌倉方に捕らわれ、鎌倉から隠岐に流されます。
その後、後醍醐帝は隠岐を脱出して再挙兵。
各地で尊皇派武士が呼応して鎌倉討伐戦を企て、これに対し鎌倉は六波羅探題の兵を差し向けるが、朝廷軍に惨敗。
そこで鎌倉の主力を率いて、足利高氏を六波羅へ援軍として差し向けます。しかし、足利高氏は鎌倉方を裏切り、道誉等と共に反旗を翻して六波羅探題を急襲します。
同じ頃、関東では新田義貞が朝廷側に立って兵を挙げ、鎌倉へ攻め上り、遂に鎌倉北条政権を滅ぼしてしまいます。
室町幕府樹立
鎌倉幕府を滅ぼした後、入京した醍醐帝は、光厳帝を廃して皇位に復権し、元号を建武と改めて1334年「建武の新政」を断行します。
ところが、後醍醐帝の建武の親政は恩賞や土地問題で早くも躓きます。
足利尊氏は政権に参加せず、鎌倉を裏切って足利と共に六波羅を滅ぼした佐々木道誉には、その功績に対し何一つ、何らの報酬も恩賞もありませんでした。
こうして武士の不満が出始めた頃に、関東で北条氏の残党による「中先代の乱」が勃発し、足利尊氏の弟直義の守る鎌倉を占領します。。
足利尊氏は直義を救う為、後醍醐帝の許可も得ずに鎌倉へ攻め入ります。佐々木道誉も足利軍と共に出陣し、鎌倉を奪還します。そして、足利尊氏は、従った武将に勝手に恩賞を与えます。導誉も上総や相模の領地を与えられている。
それに、激怒した後醍醐天皇は新田義貞を鎌倉に向けて派兵します。
ここで道誉は朝廷軍へ寝返り、義貞に降ったが、箱根竹下合戦で足利側に再度寝返ります。それが原因で新田勢は大敗北を喫して退却します。
勢いに乗って京へ攻め上った足利軍が、今度は奥州より駆け上った鎮守府将軍北畠顕家に蹴散らされ九州へ逃れると、道誉はまたも朝廷へ寝返り、ここでかねてより京極家の念願であった近江守護識を、朝廷より拝領されます。
しかし、再度体勢を立て直した足利軍が、湊川の合戦で朝廷軍を破り上洛を果たすと、佐々木道誉はまたしても足利に寝返ります。
そして、1336年に足利尊氏は後醍醐帝を廃して、光厳上皇の弟宮豊仁親王(光明天皇)を即位させ、足利尊氏はこの北朝の光明天皇より、正式に征夷大将軍に任ぜられます(室町幕府樹立)。
その後
これに対し後醍醐帝は三種の神器を持って吉野へ逃れられ、北朝を否定して建武の親政を支持する武将等を集め、北朝と対峙します。こうして、世に言う南北朝の動乱が始まりました。
やがて南北朝動乱が激しくなると、佐々木道誉は北朝足利将軍家で重責を担う様になって行きます。
導誉は若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任します。また道誉は、政治にも戦にも長けていて、楠木正行との四条縄手戦でも戦況を決定づける等功随一の名声をあげています。また観応の擾乱でも、足利尊氏を上手くサポートしています。
こうした南北朝動乱期に於いて、やがて徐々に北朝が優位を占める様になると、足利将軍家やその一党は横暴にのさばり始め、1340年、道誉の長男秀綱と共に妙法院宮の庭の紅葉を手折って、宮の家人に痛めつけられた仕返しに、放火するという事件が起こります。
延暦寺門徒に弾劾され、足利尊氏も流石に庇い切れなくなり、佐々木道誉・秀綱親子は結局上総(千葉県)に一時配流となります。
しかし、その翌年には幕政に復帰。幕府においては導誉は引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行っている。
その後、観応の擾乱と呼ばれる内部抗争で足利尊氏と弟足利直義が争った際も、尊氏に味方し、手柄を立てている。その結果、弟直義は逃亡。京からは逃亡したが、直義は関東・北陸・山陰を抑えていた。導誉は、以後も尊氏に従軍、尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言する。尊氏がこれを受けた結果正平一統(南朝、北朝の統一)が成立し直義は失脚、急逝する。
正平一統は、1358年に北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇らが南朝に奪われて破綻。すると導誉は、八幡の戦いで義詮(尊氏の嫡男)に従い南朝から京都を奪還。後光厳天皇を擁立して、北朝再建と将軍権力の強化に尽力する。しかし、翌年、南朝に京都を再度奪還されている。
武家政権導誉法師
1358年に足利尊氏が死去し、2代将軍義詮時代の政権においては政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停する。
この頃導誉は義詮の絶大な支持のもと執事(後の管領)の任免権を握り事実上の幕府の最高実力者として君臨する。
その後、足利氏の有力大名である斯波高経に最高権力者の座を奪われる。
しかし、導誉の策謀により高経は失脚し、再び権力の座に着く。
1368年に隠居。1373年、死去。享年78歳。
人物
連歌などの文芸や立花、茶道、香道、笛、さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても公家との交渉を務めていることなどから文化的素養を持った人物であると考えられている。
所領においては運送の拠点となるような地域を望むことが多く、前述の高橋屋が所在したのは京都の商業地域であり、流通や商業にも深い関心があったことが伺える。また、悪党、山の民、野伏の集団とも主導的な関わりを持っていた。導誉は所領からの収入をもとに生計をたてるというような一般的な武士からは遠く離れた経済生活を送っていた。
PR
楽天商品ランキング
|