甲賀流忍術
伊賀流と並ぶもっとも有名な忍術の一派。
甲賀流(こうかりゅう、こうがりゅう)とは、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派の総称。「甲賀流」という名称の単一の流派は存在せず、あくまで甲賀に伝わる複数の流派があわさって甲賀流と呼ばれている。本来は「こうか」と読むが、忍術に関してのみ「こうが」との誤読が一般的となっている。
特徴
普段は農業をしたり、行商をしたりして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、工作活動に励んだ。手妻(わづま)に優れると評され、忍術の流派の中でも薬の扱いに長けており、その名残として甲賀には今も製薬会社が多い。甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「惣」(そう)を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定(合議制)・運営するなどしていた。これはこの時期では全国的に見てもきわめて珍しいことである。
歴史
室町時代後期、観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が着々と力を蓄え、足利幕府の命令を軽視あるいは無視し始めたことから、1487年に将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に戦いが行われた。これを「鈎の陣」という。
義尚が諸国の大名を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、六角久頼・高頼父子は直接対決を避けて甲賀城に移動した。そこで義尚は本陣を栗太郡に位置する鈎の安養寺へ移し、甲賀城を攻めてこれを落城させるのだが、脱出した六角父子は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。
甲賀武士達は山中でその地の利を生かしてさまざまな奇襲をかけ、また時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、さんざん幕府軍を苦しめたという。 そのためなかなか決着はつかず、1489年には義尚が陣中に没したため、足かけ3年にわたった戦いは終結、六角氏は生き残った。
この時の神出鬼没のゲリラ戦やその高い戦闘力の印象が、甲賀武士達を全国に知らしめることになったのである。そして、この戦いに参加した五十三家の地侍達を「甲賀五十三家」と呼び(さらに五十三家の中で六角氏より感状を貰い重きを置かれた家を「甲賀二十一家」と称した)、甲賀の地が織田信長に席巻されるまでの間、六角氏の下で諜報に戦闘にと活躍していった。
甲賀五十三家
「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。
望月家
筆頭格。一族の著名人物として望月出雲守・望月吉棟・望月兵太夫・望月与右衛門がいる。望月出雲守の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る。1573年9月には石部城に籠城、包囲軍の佐久間信盛配下の将・林寺熊之介を討ち、義賢から感状を受けた。
望月与右衛門は島原の乱に参戦し、松平信綱に従い活躍した。
山中家
一族の著名人物として山中俊房・山中長俊・山中俊好・山中十太夫・山中俊定・山中俊正がいる。
山中長俊ははじめ六角氏に仕えて、信長と抗戦している。しかし、1574年に石部城が開城すると織田氏の家臣となり、柴田勝家に属し3000石を与えられ家老となる。賤ヶ岳の戦いにおいて柴田氏が滅亡した後は丹羽長秀に仕えたが、長秀の死後に家中が乱れたため、堀秀政に寄食。1585年に豊臣秀吉に召し出され右筆となり、1590年の小田原征伐や奥州仕置に従軍し、外交折衝などで活躍した。1592年の文禄の役では肥前国名護屋城に在陣。1593年以降、豊臣家蔵入地の越前国北袋銀山代官、筑前国蔵入地代官などを歴任し、100石を加増された。同年、山城守に叙任され、豊臣姓を下賜された。1595年には、1万石となり大名に列した。所領は摂津国西三郡、河内国中部、近江国、伊勢国に分散していた。その後、畿内の太閤蔵入地3万石の代官となる。
また、秀吉の命により『太平記』の続書として長編歴史書『中古日本治乱記』を執筆。関ヶ原の戦いの際は、西軍に属し大坂城留守居・守備隊として大坂城周辺を守備した。このため、戦後に改易となり、徳川氏より微禄を与えられたが京に隠棲し、1607年同地で死去
和田家
一族の著名人物として和田惟政がいる。和田惟政は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
義輝が家臣の松永久秀らによって暗殺されると、軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を仁木義政とともに一乗院より救い出して一時は自身の屋敷にも匿い、のちに放浪する義昭に付き従っている。義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川山城、のちに高槻城を与えられ、足利義昭からは池田勝正、伊丹親興とともに摂津国の守護の1人として任命され「摂津三守護」と称された。以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。
白井河原の戦い(茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死。多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死んだという、壮絶な最期であった。
美濃部家
一族の著名人物として 美濃部達吉・美濃部亮吉・美濃部洋次・古今亭志ん生・古今亭志ん朝・池波志乃・美濃部貞功・美濃部正;美濃部直彦・美濃部ゆう・美濃部達宏 がいる。
美濃部 亮吉は元東京都知事。
古今亭 志ん生は落語家の名跡。5代目の死後は空き名跡となっている。特に5代目は高名で、昭和以降の現代落語において「最高峰の名人」と位置付けられるほど、非常に評価が高い。孫の池波志乃は俳優中尾彬が夫。
芥川家
一族の著名人物として芥川七郎兵衛・芥川清右衛門・芥川九郎左衛門がいる。
黒川家
一族の著名人物として黒川与四郎がいる. 黒川流。
杉谷家
一族の著名人物として杉谷善住坊がいる。杉谷 善住坊は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。
三雲家
一族の著名人物として三雲成持・三雲成長がいる。
三雲成持は、戦国時代の武将。三雲城城主。はじめは南近江の戦国大名・六角氏の家臣として仕えた。織田信長の侵攻で六角氏が本拠を失い衰退した後は、独立勢力として六角氏の再起を支援するなどしたが、1575年には佐久間信盛を通じて織田氏に降伏した。
程なく浪人となったが、1584年頃に織田信雄に仕え、旧領復帰の約束を受けて、小牧・長久手の戦いでは信雄方として参戦、兵約700人を率いて伊勢松ヶ島城に籠城した。しかし、信雄と羽柴秀吉が和睦した為に旧領復帰は果たせず、和睦後は、織田氏を離れ蒲生氏郷に4000石で仕えた。
後、蒲生氏が没落すると徳川氏に仕え、子の成長は徳川氏の旗本として旧領復帰を果たしている。 ちなみに彼の兄・三雲賢持の子が真田十勇士で有名な忍者、猿飛佐助のモデルであるとする説もある。
高山家
一説には高山飛騨守と高山右近はこの高山家の出身。高山 右近は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名として知られる。
多喜(滝)家
一族の著名人物として中村一氏・多喜勘八・瀧飛騨守がいる。
中村一氏は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の三中老の1人。1577年に天王寺を攻略、本願寺門跡派の一揆を鎮圧や、1582年には山崎の戦いに鉄砲隊を指揮して武功をたてる。1583年の賤ヶ岳の戦いに参戦し、和泉国岸和田城主となり3万石を拝領する。
1584年に秀吉の紀州攻めにおいては新都・大坂防衛の主将として紀州勢と対陣。岸和田城下に紀州勢の猛攻を受けるも、寡兵ながら城を守り切り、翌年の反転攻勢においても主導的役割を果たした。
1585年に近江国水口岡山城主になり6万石を拝領、従五位下式部少輔に叙任された。1590年の小田原征伐において羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分を攻略。功により駿河国駿府14万石を拝領する。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、合戦前に病死。
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