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日本の古都

かつて日本の首都が大津市にあった!

滋賀県の県庁所在地である。667年から672年の5年間日本の首都として機能した都市である。天智天皇が近江大津宮に遷都して以来1300年以上の歴史を持つ古都であり、太平洋戦争時の戦災も少なかったことから、延暦寺(世界遺産)、園城寺(三井寺)、日吉大社、石山寺などの古社寺をはじめ多くの国宝、重要文化財建築物や史跡、旧町屋が所在する。

市域は、琵琶湖の主要な港湾である大津港を擁し東海道の宿場でもあった大津を中心に、膳所藩の城下町だった膳所、比叡山の門前町や港湾として栄えた坂本、湖上交通の拠点だった堅田などからなる。滋賀県の県庁所在地かつ最大の人口を擁する都市ではあるが、県の南西端に位置し京都市に隣接することから、同市の衛星都市としても発展してきた。

比叡山

滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山。大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡(848.3m)と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ、838m)の二峰から成る双耳峰の総称。高野山と並び古くより信仰対象の山とされてきた。
京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神が近江国の日枝山に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。延暦寺が日枝山に開かれて以降、大比叡を大物主神とし小比叡を大山咋神とし地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされ、大山咋神に対する山王信仰が広まった。また比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われ信仰の山である。

山王信仰

比叡山麓の日吉大社より生じた神道の信仰である。日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。
神仏習合期には山王(さんのう。山王権現、日吉山王など)と称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。猿を神使とする。

天台宗が全国に広がる過程で、山王信仰に基づいて日吉社も全国に勧請・創建された。これにともない、日吉・日枝・比恵・山王・坂本などという地名が各地でみられる。日吉神社の神使は猿であるが、猿との関連性についてはよく分かっていない。おそらくは原始信仰の名残りではないかと推測されている。

延暦寺

平安時代初期の僧・最澄により開かれた日本天台宗の本山寺院。高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮などを生み出していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。

日吉大社

奈良市五条町にある寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山。本尊は廬舎那仏、創立者は鑑真である。中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。 1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

延暦寺焼き討ち

比叡山は過去3回焼き討ちにあっている。1435年の足利義規への抗議の為、延暦寺の山徒による根本中堂への放火、1499年に細川政元によって、再興された根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍の焼き討ち。そして1571年の織田信長による焼き討ちである。織田信長による焼き討ちが有名であるが、細川政元による焼き討ちが徹底されていたために信長の時はあまり建物が残っていなかったと言われている。主に比叡山の焼き討ちと言えば、織田信長による焼き討ちのことを指す。

焼き討ちまでの経緯

将軍足利義昭と信長の仲が険悪となり、義昭の手回しで、越前の朝倉、北近江の浅井、本願寺などと気脈を通じて信長と敵対したとき、延暦寺もそれらに呼応した。 また、比叡山は岐阜から京都までの街道の大きな障害となっていた。

延暦寺の腐敗

当時の史料である1570年の『多聞院日記』にも「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記されており、『信長公記』にもこのような記述がある。
「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」

比叡山の僧の4階層(院来、堂衆、学生、公人)のうち、公人と呼ばれる僧が腐敗の中心であったと言われてます。常に叡山の権力を笠に着て、肩を怒らせて山領の年貢の督促などをし、有事の際には有髪を隠すために白布で頭を巻き、黒衣をまとい、武器を手に暴れ、日吉大社の神輿をかついで都大路になだれ込み、要求貫徹するまでデモをやったとのことです。彼らの多くは、叡山の門前町坂本や下坂本にたむろし、女色を漁り、魚鳥を喰らい、遊興費に困って料米、灯油、法儀料、布施などをくすね、不正な賄賂を貪り、あこぎな高利貸などをやり、脅し、かたりの果ては暴力を振るっていたと言われています。

評価

延暦寺は京の鬼門を封じている非常に重要な寺社であるにも関わらず、正親町天皇や朝廷も正式に抗議をしていないということや、小瀬甫庵も『太閤記』で「山門を亡ぼす者は山門なり」と比叡山側を批判していること、儒学者である新井白石が『読史余論』で「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として信長の比叡山焼き討ちは比較的肯定的に評価されている。

比叡山焼き討ちはなかった?

1956年に行われた比叡山の発掘調査から信長の焼き討ちによって焼失したものは根本中堂と大講堂のみであるということが判明しました。) 「『多聞院日記』などにみられるように、僧衆の多くは坂本に下り、生活の場もすでに山を離れていたと考えざるを得ない。つまり全山数百の諸堂が紅蓮の炎に包まれ、大殺戮が繰り広げられたとするイメージを生み出すのとは打って変わった、閑散たる光景しか存在しなかったのが、現実である。このようなことは山上の放火・掃討がわずか二、三日ときわめて短期間であったことからもうかがえよう」と報告書で述べておられます。 比叡山でなく麓の坂本の町が焼き討ちにあったと考えられつつあるみたいです。

見どころ

園城寺(三井寺)

日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所 。近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。


石山寺

京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所。また『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などにも登場し、『源氏物語』は紫式部が石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。


おごと温泉

雄琴温泉(おごとおんせん)は、最澄によって開かれたと伝えられる県最大の温泉地。第1回「地域ブランド」(地域団体商標)として認定されている。


建部大社

社伝では、日本武尊の死後の116年に日本武尊の妃が神勅によって、御子とともに日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社で源氏の再興を祈願、後に大願成就したので出世開運の神としても著名。


近江神宮

皇紀2600年を記念して同年に相当する1940年に創祀された神社。終戦直後には、神道指令が発令された1945年12月15日のまさにその当日に、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨により、同神宮は勅祭社に治定された。


西教寺

天台真盛宗の総本山。
開基(創立者)は聖徳太子とする伝承もあるが判然としない。1571年の織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失した。本堂は焼失の3年後に復興した。


びわ湖バレイ

六甲山人工スキー場を除くと京阪神地区から最も近いスキー場で、琵琶湖西岸にそびえる比良山系にある。京都市内から車で30分ほどの距離にある。スキー初体験の人に教え易いスキー場でもある。


義仲寺

源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられる。

琵琶湖

琵琶湖
日本で最大の面積と貯水量を持つ湖。滋賀県の面積の6分の1を占め、流れ出る水は瀬田川・宇治川・淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る。また、湖水は淀川流域の上水道として利用され、京都市は琵琶湖疏水から取水している。
 

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