藤原京

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日本最初の古代最大の都

中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。

その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都.

大宝律令が制定され、貨幣も発行されました。初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。

昭和初期の調査ではラクダの臼歯(きゅうし・奥歯)が発見されていることから、藤原京はかなり国際的な雰囲気を持った都市であったと考えられます。

しかし、ここまで巨大で国際的な雰囲気を持った藤原京が拡張工事の最中であるにもかかわらずたった16年後の710年、「平城京」に都を移されたのかははっきりと分かっていません。

藤原宮跡

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれていきます。
2011年には、藤原宮跡からの大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されました。

藤原京遷都

藤原京が出来るまで、日本の都は現在のような都市ではなく、代々の天皇がそれぞれ「宮(みや・天皇の住まい)」を建て、その宮に官僚達や豪族達が出勤して政務を行っていくというシステムが採用されていて、その「宮」のあるところが都となっていました。

そこで676年、天武天皇は「唐(中国)のように永続的に使用できる立派な都」を日本にも作ろうと考え、新しい都の建設場所を探し始めます。(新都計画が具体的に動き出すのは683年頃からです。)

  そして684年、新都建設予定地が現在の奈良県橿原市(かしはらし)に決まります。

しかし、天武天皇は新都の建設予定地を決めたまま、病死。(686年)

皇太子である「草壁皇子(くさかべのみこ)」は、天武天皇が次の天皇を明確にしないまま亡くなられた為に、3年間即位できずにいました。その間の689年、「草壁皇子(くさかべのみこ)」は病死。計画はいったん中断してしまいます。

翌年の690年、草壁皇子の母親である讃良皇女が「持統天皇(じとうてんのう)」として自ら即位することにします。夫である天武天皇の遺志を継ぎ、新都建設へ向けてようやく動き出します。

そして691年、地鎮祭を行って本格的に新都建設に着手し、694年には都を「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」から「藤原京」に移します。


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