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偉人伝

聖徳太子

7度もお札になった日本を代表する偉人

聖徳太子(574年2月7日-622年4月8日)は、飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。

菅原道真

学問の神様

平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。

吉備津彦命

桃太郎のモデルになった人物

古代日本の皇族。第七代孝霊天皇の第三子で本名を彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)という。日本書紀では吉備津彦命、古事記では大吉備津日子命と言われる。吉備冠者(きびのかじゃ)ともいう。現在の奈良県磯城郡田原本町に生まれる。山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。

勅命により四道将軍の1人として西道(山陽道)に派遣されたが、任地に赴く途上で武埴安彦命(孝元天皇の皇子)の反乱に遭遇、これを大彦命(孝元天皇皇子、武埴安彦命の異母兄弟)とともに制圧してから西道に赴き、異母弟の雅武彦命(若日子建吉備津日子命)とともに吉備国(岡山県の辺り)を始め山陽道に沿う周辺域を平定、この事によって「吉備津彦」を名乗る事になったという。その後、出雲氏の遠祖の出雲振根(いずものふるね)を討つ。

岡山県において広く語り継がれている伝説によると、昔、岡山に鬼がいた。温羅(うら)と呼ばれるその鬼は、もとは百済の王子だったという。 巨躯、赤髪の異様な姿で性格はきわめて凶暴。 いまの吉備津神社から西北へ10キロほどのところの片岡山に作った「鬼の城」を拠点に、暴虐の限りを尽くして人々を恐怖のどん底に陥れていた。
そのため朝廷から派遣されたのが吉備津彦命である。
現在の吉備津神社付近の「吉備の中山」に陣を張った吉備津彦命は、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来と共に倒し、その祟りを鎮めるために温羅を吉備津神社の釜の下に封じたとされ、同神社の御釜殿(重要文化財)における鳴釜神事の謂われともなっている。

また、家来である犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見て、この温羅伝説がお伽話「桃太郎」になったとも言われている。ちなみに、吉備津彦命の家来であった犬飼健は犬養氏の始祖で、五・一五事件で暗殺された犬養毅首相の祖先であると言われている。

吉備の中山の麓に建てた御殿「茅葺宮」に住んで政治を行い、281歳まで生きたという。 吉備津彦命の信仰の中心に延命長寿の神徳があるのは、この異常な長寿の伝説にちなんだもの。 現在も、吉備津神社の背後にある吉備の中山の中腹に、吉備津彦命の墓と伝わる墓陵がある。

藤原鎌足

藤原氏の始祖

元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた。その後中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる。出生地は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市) 。

645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。

その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として活躍。669年(天智天皇8年)、天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜った翌日に逝去した。

死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祀られる。また、大阪府四條畷市の忍陵神社の主祭神ともなっている。 『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現れ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれている。この逸話にちなみ、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られている。

役小角

修験道の開祖

634年から701年に活躍した呪術者である。修験道の開祖とされている。実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」とも呼ばれるが、「役行者」(えんのぎょうじゃ)の呼称でも有名。山林で修行し、金峯山で仏樣の出現を強く祈ったとき、金剛蔵王権現の姿を感じ、これを本尊として修験道を開きました。

修験道

日本古来の山岳信仰が仏教などの影響のもとに習合された日本独特の宗教。大自然そのものを神とし、その顕現を仏とし、霊山を修行の場として過酷な苦行を行い、 超人間的な験力をたくわえて衆生の救済を目指す実践的な宗教。修験者は、山伏という名でも呼ばれる。

汁かけ祭り(汁掛祭)

奇祭と言われる野口神社の祭り。役小角が15歳の時、長者の娘に惚れられる。しかし、修業に忙しかった役小角は相手に出来なかった。すると怒った娘は大蛇になってしまう。それを見た村人が驚いて味噌汁をぶっかけて逃げる。この出来事に起因して、その出来事が起こった5月5日に汁かけ祭りが行われる。

前鬼と後鬼

役小角は生駒山にて前鬼、後鬼と出会う。2匹は人に害を成す荒神だったが、役小角の呪縛で自由を奪われ、最終的には弟子になる。

大峯奥駆修行

1300年前に役小角によって始められた大峯奥駆修行。吉野山の蔵王堂から、和歌山県の熊野本宮・那智大社までの山々を、およそ百八十キロを縦走する山林修行のこと。「西の覗き」と言われる修業が有名。新客(初入行者)は肩に命綱をかけて、断崖絶壁から逆さづりにされ覗きの行がおこなわれます。「信心怠らないか」「親孝行するか」「奥さんを大事にするか」と言う風に、次々と出される問いに、ただ々「はい」と絶叫する捨身行。

在原業平

伊勢物語の主人公

825年から880年に活躍した貴族・歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。第51代天皇・平城天皇の第一皇子・阿保親王を父に、桓武天皇の皇女・伊都内親王を母に持つ高貴な家柄の出身だが、祖父・平城天皇が起こした薬子の変によって家運が傾き、臣籍降下して在原氏を名乗る。第55代天皇・文徳天皇の第一皇子・惟喬親王に仕えた。平安時代きっての美男子・プレイボーイとして知られており、藤原高子や恬子内親王など、様々な女性との浮き名を流した。古今和歌集をはじめ、彼の詠んだ和歌の多くが勅撰和歌集に載せられている。

業平橋駅

とうきょうスカイツリー駅の旧名にもなった業平橋は、在原業平からとったと言われている。

長野業正

武田信玄を何度も破った長野業正は業平の子孫を称している。

島左近

三成に過ぎたるものと言われた武将

安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。本名は島清興(しまきよおき)。三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった。

半分の石高

石田三成に熱心に誘われた際、三成の俸禄4万石の内、2万石で召抱えられた。後に、三成が出世した折に左近の家禄を増やそうとしたが拒否されたという左近の義理堅さをあらわす逸話が残っている。

関ヶ原の合戦

前日には、兵500を率いて東軍側の中村一栄・有馬豊氏両隊に小競り合いを挑み(杭瀬川の戦い)に完勝した。関ヶ原の戦い本戦においては、小早川秀秋の寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり左近は死を覚悟して再び出陣、正面の黒田長政隊、田中吉政の軍に突撃し、奮戦した末に敵の銃撃により討ち死したとされる(諸説あり)。

最期の折の勇猛さ・狂気じみた奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となっている。黒田軍の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれーっ!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたとの逸話が伝わるほどである。(『常山紀談』)。

卑弥呼

謎が多い女王

2世紀後半の弥生時代に活躍した人物。
支那の「三国志」と呼ばれる歴史書の1つ「魏書」という書物の、所謂「倭人伝」と呼ばれる日本のことが描かれている部分に登場する日本の女王。卑弥呼とは、支那側の呼称。日本にそのような人物は存在せず、この「魏書」に登場する卑弥呼が「古事記」や「日本書紀」のどの人物に比定されるか分かっていない。
卑弥呼の「卑」と言う漢字が「卑しい」という下品な文字を使っているのは、支那以外を下に見ている中華思想によるものである。邪馬台国の「邪」や倭国の「倭」という漢字も同じ理由からである。

卑弥呼が活躍した時代は、日本は大乱の最中で、卑弥呼の治めていた国は狗奴国(くなこく)と争っていた。もしくは大乱を治め、女王に治まったのが卑弥呼である。

九州の人物?

卑弥呼は大和朝廷の人間ではなく、九州にいた人物であるとの説もある。
「魏志」によると卑弥呼は100枚の鏡を、支那の魏の国から貰ったとされている。しかし、この時代の支那の鏡の発掘は近畿地方からはほとんど出て来ない。九州からは、支那製の鏡が数多く出土されている。

魏志倭人伝

三国志は三国を統一した魏の国の重臣だった司馬一族の起こした晋の時代に書かれている。
その際、ご先祖様の凄さを強調する為に凄く遠くの国からも貢物を持ってきたという出来事を示す為に倭国が登場している。なので、卑弥呼も誇張されて書かれている可能性も高い。
卑弥呼が亡くなった際も、『殉葬者は、百人あまり』と記述があるが日本の古墳では殉葬される習慣があまりなかった。想像で書かれていた可能性まである。

ちなみに三国志の有名な諸葛亮孔明も、それに対抗した司馬仲達の凄さを強調する為に怪物のような天才に描かれている。

一体卑弥呼とは誰のことなのか。

支那側の呼称である卑弥呼が、日本の誰のことを指しているのか、いくつか説がある。
天照大神や倭迹迹日百襲姫(第7代孝霊天皇の皇女)、倭姫(第11代垂神天皇の皇女)、神功皇后(第14代仲哀天皇の皇后)などであるが、そのどれとも違う説も多様にある。
大和朝廷の人物でなく、別の王朝だった可能性もある。

安倍晴明

天才陰陽師

921年から1005年に活躍した陰陽師。
鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。桜井市安倍に生まれたとされる(大阪市阿倍野区と言う説もある)。
この安倍氏は土御門家とも呼ばれ、晴明一代で陰陽道の名家になれた。

晴明は遅咲きで、50歳ごろ天文博士に任ぜられ、50代後半に父・保憲が没したころから頭角を現す。その後、那智山の天狗を封ずる儀式や一条天皇の病の禊(みそぎ)、1004年の干ばつに対する雨乞いなどで陰陽師としての名声を高めていき、位階は従四位下に昇った。

安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。

陰陽師

古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つだったが、現代においては民間で私的祈祷や占術を行う者と定義付けられており、中には神職の一種のように見られる者も存在する。

逸話

白狐(妖狐)の葛の葉を母に持つと言われ、呪術や祈祷に長け、式神(十二神将)を自在に操ったとされ、数々の伝説を生んだ。ライバルの蘆屋道満とは対決を繰り広げた。

歴史物語の『大鏡』『十訓抄』や説話集の『今昔物語集』『宇治拾遺物語』にはいくつかの晴明に関する神秘的な逸話が載っている。

柳生宗矩

政治力に優れた剣豪

江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。

剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。

政治力が強いことで柳生十兵衛との対立が描かれることが多いが、剣豪としても高く評価されており、「古今無双の達人」「刀法の鳳(おおとり)」「剣術無双」などと賞賛されている。
3代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、剣術(新陰流)を伝授して加増され、最終的に12,500石の大名になっている。

剣豪の中で大名にまでなったのは、日本の歴史上柳生宗矩だけである。

活人剣

「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」というもの。
戦乱の時代が終わりを迎えた際、「太平の世における剣術」の存在意義を新たに定義したものである。一剣士としてだけに留まらず、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立し、後世の武術・武道に大きな影響を与えた。

武術としての剣術を武道に昇華させる端緒となった。


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