歴史
約2万5千年前(炭素14年代測定法による)には旧石器時代の人々が生活を始めた。二上山北麓遺跡群には60か所以上の旧石器の遺跡が分布しており、ナイフ形石器・石核・剥片などの遺物が出土している。
★古墳・遺跡★ 縄文時代には木津川・吉野川水系の諸河川が流れる大和高原や吉野山一体を中心に遺跡が分布している。県下最古の縄文遺跡は山添村中峯山(ちゅうむざん)の大川(おおこ)遺跡があり、県北部の布目川流域では、山添村の桐山和田遺跡や北野ウチカタビロ遺跡から草創期の隆起線文土器が出土している。
★大和王朝★
紀元3世紀から4世紀頃の古墳時代前期に、この地方の豪族が力を強めて周辺地域に覇を唱えた。その後長い年月と代替わりを経て、他地域との交流・攻防や大陸との交流の末、現在の日本地域の大半を支配する大勢力となった。これがヤマト王権と呼ばれる。
ヤマト王権は、現在の天皇家の祖であるとされ、宮内庁比定の天皇陵などが集まっている。また、邪馬台国と同一視する説、北九州にあった邪馬台国の子孫が移住して新たに建国した国であるという説、神武天皇の東遷説などがある。
3世紀の半ば過ぎから邪馬台国連合・ヤマト政権の盟主墳と考えられる古墳が累々と奈良盆地に築造されている。
(外山古墳群、纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群)
ヤマト王権成立以来8世紀末まで、この地域に大和朝廷の累代の天皇の宮があり、都が置かれた(飛鳥京、藤原京、平城京)。
★平安時代★
平安時代後期は、清和源氏の源満仲の次男の源頼親(兄・源頼光/摂津源氏。弟・源頼信/河内源氏)の大和源氏の本拠地となった。 |
神武天皇量(橿原市) |
★鎌倉時代から南北朝時代★
後醍醐天皇が吉野朝廷(南朝)を開き、60年に渡って中央政府(北朝)に抵抗を続けた。最後は北朝に下った。
東大寺、南都寺院が大きな勢力を誇ったために、鎌倉・室町時代の武家政権は定まった守護を置けなかった。
★戦国時代★
筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏などが北大和地域に割拠し争ったが強力な支配勢力となりえず、細川氏や畠山氏・三好氏の後援を受けた赤沢朝経や木沢長政・松永久秀といった他国勢力の支配を受けた。16世紀末に戌亥脇党の筒井順慶が織田信長の力を背景に大和を概ね制する。また、一向宗の布教拠点として今井町が環濠城塞都市化して信長軍と闘ったが、武装放棄されたものの検断権を許され商工業を盛んにし自治都市として発展した。続く豊臣秀吉の時代、順慶亡き後筒井氏は伊賀国に転出し、代わって郡山城に大納言豊臣秀長が拠を構え、地域の再編と産業奨励に乗り出し大和は安定した。
★江戸時代★
奈良(奈良奉行)・五條(五條代官)・今井(惣年寄)を幕府が直轄支配し、郡山藩が15万石で最大石高で、高取藩が2万5千石、松山藩が2万8千石で、小泉藩・柳生藩・柳本藩・芝村藩・櫛羅藩などは陣屋であった。また、交代寄合の平野家の田原本陣屋があった。
明治維新以降
1868年(慶応4年)1月、新政府は添上郡奈良に大和鎮台を設置。
大和鎮撫総督府を経て、同年5月19日に奈良府、7月29日に奈良県(第1次)となり、大和国一円の幕府領、旗本領、寺社領、十津川郷(翌年より)を管轄した。
1869年(明治2年)に十津川郷を兵部省軍務官に(のち五條県に編入)、1870年(明治3年)に宇智郡・吉野郡および葛上郡・宇陀郡の一部を五條県にそれぞれ移管している。
1871年(明治4年)に第1次府県統合により大和国10県が統合され、改めて奈良県が設置されたが、1876年(明治9年)に堺県に編入されてしまう。
堺県は1881年(明治14年)に大阪府に編入され、奈良は「大阪府の大和地域」とされた。しかし、1887年(明治20年)11月4日には大阪府より分割され、奈良県(第2次)が再設置された。
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