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県名の由来

日本最古の歴史書である古事記に「伊予国は愛比売(えひめ)と謂ひ」と記されていることが現在の県名の由来になっています。

伊予国

伝統的には「伊豫」の名称であり、「伊予」「伊与」の表記も用いられた。
古代人は、湧水を「いゆ」と呼んでおり、これが「いよ」になったとする。古代、水の湧き出ずる所は、特別な地として扱われるようになり、これが湧水の周辺を指す小地域としての地名からより広い地域を指すようになり、伊予となったと言われている。

遺跡

県内では2万2000年以上も前から人々が生活していました。
それは、1995年伊予市の旧双海町の東峰遺跡・高見T遺跡でAT火山灰(姶良・胆沢火山灰)の下から石器が出土したことで分かりました。

村上水軍

村上水軍とは伊予国の守護河野氏の支配化の水師で、瀬戸内海の因島、能島、来島を拠点に活躍した海上の武装集団。

河野水軍支配下の忽那・今岡・得居・能島・来島・因島の六氏の水師の中で、能島・来島・因島の三氏は三島村上氏と呼ばれ、三家合わせてその数は790余騎ともっとも勢力が強大でした。

来島(くるしま)村上水軍

室町時代は伊予守護河野氏の重臣で、戦国期には毛利氏の水軍として働く。
五代目棟梁通総(みちふさ)のとき来島氏を称し、河野氏を離反、豊臣秀吉の水軍に編成され、伊予国二郡のうち1万4000石を安堵された。

通総の嫡子康親は関ヶ原の戦で東軍に降り、1601年豊後国森に転封、通春のとき久留島氏と改めた。以後代々森藩主。明治維新後は子爵となる。

天下の古湯

日本三古湯の一つであり、三千年の歴史を持つとされている道後温泉を始め、県内の各所では効能豊かな温泉が現在でも潤沢に湧き出しています。

また、歴史的にみても聖徳太子を始め、舒明天皇や斉明天皇など、多くの天皇が行幸の際に伊予の湯で体を休めたと文献に記されており、名実ともに日本有数の温泉地として愛媛県に多くの人が訪れています。

伊予八藩

現存十二天守

江戸時代の愛媛県は、伊予八藩と呼ばれたように伊予松山藩、宇和島藩、大洲藩、今治藩、西条藩、伊予吉田藩、小松藩、新谷藩の主に8つの藩が分割されていました。

その内、伊予松山藩の松山城と宇和島藩の宇和島城は、共に「現存十二天守」に数えられており、全国的に2つの現存十二天守の城があるのは愛媛県のみとなっています。

近代

廃藩置県により8藩がそのまま県となります。
その後、丸亀県の一部と西条・小松・今治・松山の各県が合併して松山県に、大洲・新谷・吉田・宇和島の各県が合併して宇和島県となります。

そして、松山県は石鉄県(いしづちけん)、宇和島県は神山県(かみやまけん)となり、石鉄県、神山県が合併し、愛媛県となります。

なんとその後、香川県と合併します。しかし、1888年、香川県が分離して現在の愛媛県となります。


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