偉人伝

香川県を知る

主な市町村

特集


広告

偉人伝

平賀源内

江戸の大天才

1728年から1780年に活躍した発明家、本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家と多彩な能力を発揮した大天才。

経緯

13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。1752年頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。1756年には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。

1761年には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。
物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。

1762年には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。
1763年には『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)を刊行。

オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。

1766年、中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。
現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。

1776年には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。

1779年、大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、投獄され、破傷風により獄死した。享年52。

戯作の開祖

文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。

土用の丑の日

「夏バテ防止のために土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説がある。

日本初のコピーライター

1769年にはCMソングとされる、歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、1775年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。

発明品

“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を生んだと言われている。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内である。

久米通賢

日本初の実測地図を作った人物

1780年から1841年に活躍した発明家、暦学者、測量士、洋学者などである。
伊能忠敬よりも早く、日本初の実測地図を作った人物である。

地元香川県では偉人として顕彰されており、「讃岐のエジソン」「塩田の父」などと称される。

幼少のころから利発で学問好きな子だったため、引田港から大坂に向かう船の舵取りも務めていた父の嘉兵衛は、大坂に行くたび通賢のために書物を買ってきていた。
また、手先が器用で熊や獅子を粘土で作るのが得意だったため「獅子熊」と呼ばれていた。

1798年、大坂へ出て暦学者の間重富の門下となり、暦学・数学等を学んだ。その後、父が逝去したため帰郷。その後も郷里で勉学に励んだ。

1806年、高松藩の測量方に採用され、領内の引田から西へと実地測量地図の作成に従事した。
この地図は伊能図より早い讃岐国最古の実測地図である。
また、翌年には、軍艦の設計も行っている。

1808年、幕府命令で日本地図を作成していた伊能忠敬一行が讃岐国を訪れ、通賢もこれに協力した。

1815年、従来の火縄式銃を火打ち石式に改良することに成功している。

1824年、このころ、財政難に陥っていた高松藩の第9代藩主松平頼恕は、通賢の多才な才能を見込んで財政再建策を頼った。
通賢はこれに応えて阿野郡坂出の浜に新たな塩田を開発することを進言。高松藩はこの案を採用し、通賢は普請奉行に任じられた。

ところが高松藩の財政難は深刻で、途中から塩田開発工事資金がとどこおるようになった。
通賢は工事を完成させるため、私財を投入して工事を継続させた。工事は完成し、藩主頼恕は大いに喜び、通賢の功績を称えるため、現在も残る「阪出墾田之碑」(坂出市指定有形文化財)を建立した。

この塩田完成で坂出の塩生産量は日本全体の約半分を占めるまでにいたり、高松藩の財政をうるおし、戦後に工業地域に転換されるまで塩業は讃岐国・香川県の代表的産業となった。

1836年、通賢は藩の職を辞し帰郷。その後も日本初の国産マッチ(雷汞マッチ) 等様々なものを発明している。1841年死去。

エピソード

7歳の頃、通賢は父に連れられ大坂の町の時計店に行く機会があり、当時最先端の機器であった時計の修繕を熱心に眺めていた。そこへ別の客がやってきて店の者に時計の修繕を依頼したが、店の者は誰も手がすいていない。
そこで通賢が店の道具を借りて見よう見まねで修繕をしてみたところ、時計は元の通り動くようになったため、皆大いに驚き喜んだという。

奈良専二

明治の三老農の一人

1822年から1892年に活躍した農業指導者。
明治農法を確立した「明治の三老農」の一人として知られる。

幼少のころから「農をもって国を興す」という大志を抱き、わずか8歳で運搬用のネコ車を発明するなど農機具の考案、さらにはイネの品種改良など農業全般にわたる実地指導者として活躍した。

1877年の第一回内国勧業博覧会への参加を契機に全国的に知名度を高めた。

1883年、60歳を過ぎて決意を新たに上京。以来、東京、千葉、茨城の各地で農業技術の研究を行うとともに、指導者としても活躍した。

1890年、秋田県仙北郡花館村(現・大仙市)に農業指導者として招聘された。花館村に移住し、豪農・佐々木多右衛門家に滞在しながら、「働かなければ生活はできない」という勤労の気風を植えつけ、ウサギの生産・養蚕・馬産を奨励、さらに納豆、豆腐の製法も教え、乾田での馬耕も指導、着々と成果をあげた。

また、数々の農書を著した。耕地整理も奈良の指導で仙北郡内で最初に行われ、今日の農業の礎を築いた。

1892年、秋田県南秋田郡川尻村(現・秋田市)で肺炎のため死亡した。

「奈良稲」と名付けた優良品種の育成・普及や、「砕塊耙、一名日雇倒シ」など農具の発明・改良に与って力があり、『農家得益弁』『米作改良法』などの著書も刊行している。

老農とは

農業技術に秀でた在地の農村指導者と言ったような意味で、老人とは関係ない。

中村直三、奈良専二、船津伝次平(林遠里という人もいる)の3人は特に崇められており、明治の三老農と言われた。

日本の近代農学の誕生にとって、老農たちは欠くことのできない存在だった。しかし、試験場体制が整備され、農事改良の中核は老農技術から試験場技術へと変わる。農学校が拡充され、系統農会が法認される。

近代農学者の時代になり、老農の時代は終焉を迎えた。

菊池寛

文藝春秋社の創設者

1888年から1948年に活躍した小説家、劇作家、ジャーナリスト。文藝春秋社を創設した実業家でもある。

芥川賞、直木賞設立者

高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボっていたのが原因で除籍処分を受けた。

その後、明治大学法学部に入学するも、中退。懲役逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍のみを置き、一高入学を目指して受験勉強に励んだ。

1910年、早稲田大学を中退して第一高等学校第一部乙類入学。しかし卒業直前に、経済的理由故に退学。

その後、友人・成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた。

1916年に京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。

1923年に私費で雑誌『文藝春秋』を創刊し大成功を収め、多くの富を手にした。
日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者でもある。

大映初代社長や報知新聞客員を務め、これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。

1925年、文化学院文学部長就任。その後、衆議院議員に立候補するも落選。1937年に東京市会議員に当選した。

大東亜戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目に遭い、1948年に失意のうちに没した。

名言

大東亜戦争に対して、「我々は誰にしても戦争に反対だ。然し、いざ戦争になってしまえば協力して勝利を願うのは、当然の国民の感情だろう」。

サザエさん

菊池がサザエさんの作者・長谷川町子の作文を読んだ際、東京女子大学に在学中の長谷川の才能に気が付き、長谷川の姉に「(大学を)やめさせなさい。ボクが育ててあげる」と答え、長谷川は大学を退学して菊池家に日参し、古典文学などの講義を受けた。

戦後の初期に執筆された『サザエさん』には、菊池寛が実名と似顔絵で登場するエピソードがある。

空海

真言宗の開祖

774年から835年に活躍した僧。弘法大師の名で知られる。真言宗の開祖。

日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。

唐に渡る

正確な誕生日は不明である。

788年に平城京に上る。789年、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。

792年、18歳で京の大学寮に入り、大学で明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる。

793年、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った。

24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した。

その後、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かった。
また、室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開いたといわれ、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。

求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれている。

804年、正規の遣唐使の留学僧として唐に渡る。
遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。
何故、一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上したかについては、今日なお謎を残している。

唐で伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。
この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。

唐から帰国する際、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開宗したため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。

真言密教の確立

帰国後、数年大宰府に滞在した後、京に入る。
812年に、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。

816年、修禅の道場として高野山の下賜を請い、高野山を下賜する旨勅許を賜る。
翌年、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、818年に空海も高野山に登り、819年に七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手した。

この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆した。

821年、満濃池(まんのういけ、現在の香川県にある日本最大の農業用ため池)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導いた。

823年、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。
後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになる。

828年には、私立の教育施設「綜芸種智院」を開設。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校であった。儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもある。

831年、病(悪瘡といわれている)を得る。835年、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に入滅した。享年62(満60歳没)。

弘法大師

921年、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。

歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指す。

空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多い。

故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めている。

まだ生きている?

空海の死因は病死で、「続日本後記」では遺体は火葬されたと記されている。

しかし、後代には、即身仏となったとする文献(『金剛峰寺建立修行縁起(968年)』など)が現れる。

それゆえ、高野山の人々や真言宗の僧侶の多くは、空海が死んだと言うことは半ばタブーとなっており、高野山奥の院の霊廟において現在も空海が禅定を続けていると信じている。

奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。
霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。

また、即身仏となった後も、諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年3月21日に空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついていることをあげている。

十大弟子

真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延の10人とされる。

空海の英雄化

もともとお大師さんと言われ人々に親しまれていたが、外来の仏教という不純な思想を持ち込んだとして評価が落ちている時期もあった。

しかし、日支事変に臨むにあたり、「英雄」という存在のもとで国民を団結させる必要があったことから、空海が再評価された。

日本統治時代の影響を受けてか、台湾には空海を祀る廟が存在する。

弘法大師の伝説

弘法大師に関する伝説は、北海道を除く日本各地に5,000以上あるといわれ、歴史上の空海の足跡をはるかに越えている。

ただ、闇雲に多くの事象と弘法大師が結び付けられたわけではなく、その伝説形成の底辺には、やはり空海の幅広い分野での活躍、そして空海への尊崇があると考えられる。

弘法大師にまつわる伝説は寺院の建立や仏像などの彫刻、あるいは聖水、岩石、動植物など多岐にわたるが、特に弘法水に関する伝説は日本各地に残っている。
弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法水の伝承をもつ場所は日本全国で千数百件にのぼるといわれている。弘法水は、場所やそのいわれによって、「独鈷水」「御加持水」などと呼ばれている。

弘法大師が由来とされる伝説や伝承

ひらがな、いろは歌、お灸、讃岐うどん、手こね寿司、九条葱、エツ(魚)、曜日、ダウジングなど。

弘法大師由来のことわざ、慣用句

「弘法も筆の誤り」、「弘法筆を選ばず」、「護摩の灰」、「生麦大豆二升五合(なまむぎだいずにしょうごんごう)」など。

最澄との関係

もともと最澄の方が位が高かったが、密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていた。

2人は10年程交流関係を持っていたが、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、訣別するに至る。

2人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経(「理趣経」の注釈書)の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられる。

石井絹治郎

大正製薬の創業者

1888年から1943年に活躍した化学者、薬剤師、実業家。大正製薬の創業者・初代社長で、薬剤師の地位向上のため尽力した。

経緯

神田薬学校夜間学部(現明治薬科大学)に入学し、薬学を学ぶ。

1906年に明治薬学校を主席で卒業し、当時合格率が極端に低かった薬剤師国家試験に最年少の18歳で一発合格した。しかし、当時の資格取得年齢は満20歳だったため、2年間保留となり、その間、宮内省侍医寮薬局実習を経て、東京高等師範学校(現:筑波大学)理学部化学科教授の小川正孝の助手となる。

1908年に保留だった薬剤師免許証の取得を受け、牛込佐内町に「泰山堂薬局」を開設し、故郷から一家を東京へ迎える。

1912年に「大正製薬所」を設立し「ヘモグロビンエキス」「ヘモグロビン菓子」の製造販売を始め、事業が軌道に乗る。

関東大震災で、1918年に開設していた大阪支店に命じて、大阪から大量の医薬品や衛生材料などを至急輸送させ、罹災した会員に無料配布するなど、迅速果敢な処置を行った。
結果的に、東京の同業者の多くが罹災したが、運よく罹災を逃れた大正製薬所に注文が殺到し、損失の数倍に匹敵する利益を上げた。

1928年に大正製薬所を株式会社大正製薬へ改組。
仕事一徹で、昼夜を問わず駆けずり回っていた石井は、多数の委員会の委員や委員長を歴任すると共に、大正製薬以外の事業を数多く手がけた。

1943年に東京商工会議所満鮮北支経済使節団長として渡支し、帰国後チフスを発病、同年永眠。享年55。

大社義規

日本ハム株式会社の創業者

日本ハム球団の元オーナーでハム・ソーセージ業界最大手の日本ハム創業者。球界一球場に足を運ぶ名物オーナーとしても知られる。

食肉加工のトップメーカー

旧制高松高等商業学校(現・香川大学)を中退後、叔父経営の養豚組合に就職したのち1942年に日本ハム株式会社の前身母体となる「徳島食肉加工工場」を徳島市で設立。

その後戦災による工場焼失、株式会社への組織変更を経たのち大阪市浪速区に拠点を移し、「鳥清ハム」との合併を経て1963年に社名を「日本ハム」に変更、ハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。

1973年には、日拓ホームフライヤーズを買収し、公募で決定した新ニックネームをつけ「日本ハムファイターズ」としてプロ野球に参戦。オーナーに就任し、チームの躍進とともに企業のイメージアップにつなげた。

しかし、2002年の狂牛病対策による農林水産省の制度を悪用した牛肉偽装事件の影響で経営から身を引き、第一線からも退いた。2005年、兵庫県の病院にて心不全のため死去。90歳没。

エピソード

酒好きであったが、日本ハムの試合が行われている時は選手に失礼だからという理由でまったく飲まなかったと言われている。

馬渕健一

株式会社マブチモーターの創設者

株式会社マブチモーターの創設者。小型モーターの分野に掛けては世界トップシェアを誇るマブチモーター社の礎を築いた人物として名を馳せている。

2005年に逝去。

小型モーターシェア世界一の企業

1946年に起業。
起業の翌年にフェライト磁石を用いる馬蹄型マグネットの小型モーターを開発し、業界の大反響を呼んだ。

その後も、製品のたゆまぬ改良と、量産化の成功によって、小型モーターにおいては他の追随を許さないほどのメーカーへとたちまちに成長していった。

マブチ製モーターは、手軽な価格と、構造の単純さで、子供向け玩具の動力としておいて人気を博した。

戦車プラモデルやミニ四駆の全盛だった時代に、マブチモーターは少年たちにとってのトップブランドとして君臨。

その後、マブチは玩具から実用のモーターへと裾野を広げる。
家庭用電子機器(電動歯ブラシやシェーバーなど)や工具、自動車のパワーミラーなどへと事業を拡大。モーター業界のシェアを確立していった。

馬渕健一はまた、中堅企業の中でも特に充実した経営理念を打ち出し反映させることに成功した人物としても評価されている。

1960年代には早くも「国際社会への貢献とその継続的拡大」という声明を打ち出しており、2000年に入るとこの経営理念を実経営に如実に反映させるべくプランの整備を行っている。

例えば「より良い製品をより安く供給する」ということに注力し、製品を中国・アジアに集約させて大量生産する(日本には、本社と開発事業部のみ置かれてある)など、早期からの徹底した低製造コスト戦略を行っている。

その先見の明は、モーター業界のリーディングカンパニーとしてだけでなく、ニッチ産業の典型的な成功例として、各界から評価されている。

柴野栗山

寛政の三博士の一人

江戸時代の儒学者、文人。
古賀精里(岡田寒泉が入ることもある)・尾藤二洲とともに寛政の三博士の一人として知られる。

異学の禁を進言したことで知られており、朱子学以外の学派や、国学・歴史学にも精通し、多くの学者・文人たちと交流した。

牟礼町にある栗山記念館には、栗山にあやかろうと、受験シーズンに多くの人が集まってくる「入試の神様」としても知られている。

寛政異学の禁の立案者

1736年に牟礼町牟礼に産まれる。
高松藩の儒学者後藤芝山の元へ通い、儒学を習った。

1753年に江戸に赴き、日本の学校教育の発祥と言われる湯島聖堂で学問を学んだ。
湯島聖堂の学習を終えた柴野は、1765年に高橋図南から国学を中心に学問を学び、1767年に徳島藩に儒学者として仕えるようになった。1768年には徳島藩主・蜂須賀重喜と共に江戸に再度赴く事となる。

1787年、江戸幕府老中松平定信から呼び出され、幕府に仕えるようになる。

寛政の改革の際には、世直し大明神とあがめられ、「寛政異学の禁」の建議が松平定信に取り入れられるなど評価が高まる。

1788年には、京都御所の火事に伴い、新皇居造営の責任者となった。
その際、紫宸殿の賢聖障子再現に努力した。典故典礼に明るく考証学者であった栗山だから出来た事業である。

1790年に湯島聖堂の最高責任者となった。1807年、病死。
亡くなる直前に行った、城崎温泉で、「玄武洞」を命名している。

穴吹智

陸軍のエース・パイロット

大日本帝国陸軍の軍人、陸上自衛隊の自衛官。
戦闘機操縦者、ヘリコプター操縦者。最終階級は陸軍では陸軍曹長、自衛隊では2等陸佐。大東亜戦争時の陸軍のエース・パイロット。
異名・あだ名は「白色電光戦闘穴吹」「運の穴吹」「ビルマの桃太郎」「豆タン黒」など。

撃墜マークは「太丸に星」または「太丸に点」であり、愛機の垂直尾翼に自身が考案した機体愛称(「吹雪」号・「君風」号)とともに描いていた。

「腕の佐々木」と言われた佐々木勇軍曹、「度胸の下川」と呼ばれた下川幸雄軍曹と共に、穴吹智軍曹は「運の穴吹」と言われ、「飛行第50戦隊三羽烏」の一人であった。

1人で50機以上撃墜した英雄

1938年、穴吹は少年飛行兵を目指し東京陸軍航空学校へ入校。
陸軍少年飛行兵第6期生として熊谷陸軍飛行学校に進み、更に1940年に太刀洗陸軍飛行学校へ入校する。

同校卒業後、陸軍航空部隊の戦闘機操縦者として飛行第50戦隊第3中隊に配属され、陸軍伍長に任官される。

大東亜戦争開戦時には、南方作戦におけるフィリピン攻略戦に従軍し、アメリカ陸軍航空軍のP-40戦闘機を撃墜し初戦果を挙げる。
その後、ビルマ戦線に展開し、イギリス空軍と交戦、以後、ビルマ・東インド・西南中国を転戦する。軍曹に進級。ハリケーン戦闘機2機を撃墜。

1943年、チッタゴン上空で、ハリケーン戦闘機とスピットファイア戦闘機各1機を撃墜。
ビルマのバイセン上空で、P-38戦闘機2機を撃墜、さらにB-24爆撃機1機に体当たりしこれを撃墜。第3航空軍司令官より個人感状を授与される。

1944年、日本に帰国し、明野陸軍飛行学校の助教として、ビルマ留学生等の操縦教育を担当する。
また、ルソン島の戦い中に同地へ四式戦闘機「疾風」を空輸する任務につき、空輸中に台湾の高雄上空において「疾風」でアメリカ海軍のF6F艦上戦闘機4機の撃墜を報告。曹長に進級。

大東亜戦争敗戦までは、明野教導飛行師団教導飛行隊で五式戦闘機一型に搭乗し本土防空戦に参加、B-29爆撃機1機の撃墜を報告する。

戦争全般を通じての総撃墜報告数は51機ないし53機。研究家による戦後の調査では30機と推測されている。

戦後、1950年に、警察予備隊に入隊。保安隊を経て、陸上自衛隊東北方面ヘリコプター飛行隊長などを歴任し、1971年に2等陸佐で退官した。

その後、日本航空に入社し、1984年に退社。 2005年6月死去。享年83。


PR

楽天商品ランキング

TOP