神戸市

兵庫県を知る

主な市町村

特集


広告

住みやすい都市

住みやすい都市世界5位の町

兵庫県の県庁所在地。政令指定都市でもある。「神戸」という地名は、現在の三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封戸の集落(神戸「かんべ」)であったことに由来する。アジアの都市で初めて「デザイン都市」としてユネスコに認定されている。2012年には、スイスのECAインターナショナルが発表した「世界で最も住みやすい都市」で、日本の都市で唯一トップ10に入り、世界全体で5位に選ばれた。

福原京

平清盛が作った日本の首都

1180年に平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。場所は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に人工島の経が島(経ヶ島)を築き整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画された。のちに福原京の建造物群は源義仲によって全て焼き払われた。

神戸港

港湾法上の国際戦略港湾に指定されている。 日本の主要な国際貿易港(五大港)の一つで、スーパー中枢港湾の指定を大阪港と共に受けている。1868年1月1日に開港。現在の日本三大旅客港の一つ。

その歴史は大輪田泊(おおわだのとまり)や兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた兵庫港に始まり、かつての都であった奈良や京都と、日本国内の東西航路や大陸との交易の拠点として古くから栄えてきた。

日清戦争後には香港・上海を凌ぐ東洋最大の港となって、ロンドン・ニューヨーク・ハンブルクと並ぶ世界四大海運市場として世界に名を知られるようになっていった。

コンテナ取扱数世界一

商業や工業が集積する大阪に近いこともあり、近代以降も国際貿易の拠点として規模を拡充した結果、1970年代には阪神工業地帯の輸出港としてコンテナの取扱個数が世界一になるなど世界有数の港として知られていた。

阪神大震災後の神戸港

アジア最大のマザーポート(ハブ港)としての地位は戦後も揺るがず、日本の高度成長期の発展を支えた。 近隣アジア諸港から集荷していたトランシップ貨物は、アジア諸港のコンテナターミナルが急速に拡充され始めたことで、すでに1990年代初めから減少傾向に転じていて、これが震災によって韓国・釜山港などへのシフトが加速した。震災前まではコンテナ取扱量で世界第3位の地位を得ていた国際ハブ港であったが、釜山港にハブ機能を譲り渡した格好となった。

大輪田泊(おおわだのとまり)

現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた。

経が島

日宋貿易の拠点である大輪田泊(摂津国)に交易の拡大と風雨による波浪を避ける目的で築造された人工島。1173年に竣工する。その広さは『平家物語』に「一里三十六町」とあることから、37ヘクタールと推定されている。経ヶ島・経の島とも書く。

塩槌山を切り崩した土で海を埋め立てた。工事の際、それが難航したために迷信を信じる貴族たちが海神の怒りを鎮めるために人身御供をすることになる。平清盛は何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考えて、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使う(経石)。その後、事故などもなく無事に工事が終わったためにお経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになった。

『平家物語』では清盛自身、死後に円實という僧によって経が島に埋葬されたと記述されている。

メリケンパーク

神戸港にある公園。メリケン波止場と神戸ポートタワーが建つ中突堤の間を埋め立てて造成された。神戸海洋博物館、ホテルオークラなどが建設されて、現在においては神戸港を代表する景観の一つとなっている。

神戸ハーバーランド

神戸市中央区にある再開発地区。エキゾチックな市街地の雰囲気や神戸の夜景スポットとして非常に有名である。1981年に竣工されたポートアイランドと並ぶ臨海部の都心的な開発事例。対岸のメリケンパーク側に神戸ポートタワーや神戸海洋博物館といった観光施設が揃うのに対し、ハーバーランド側には神戸モザイクなどの複合商業施設が林立し、顧客の獲得競争が日々繰り広げられている

百万ドルの夜景

日本三大夜景
「六甲山(摩耶山)・掬星台から見る神戸市・阪神間・大阪の夜景」は「100万ドルの夜景」と呼ばれ、100万ドルの価値があるとされている。函館市、長崎市と共に「日本三大夜景」の1つとして人気が高い。 。「100万ドルの夜景」という言葉は、1953年に電力会社幹部が神戸の夜景について「六甲山から見た神戸の電灯の電気代」に絡めて命名したのがきっかけである。
 

神戸牛

日本三大和牛の1つ

神戸牛は兵庫県で生産された「但馬牛たじまうし」からとれる枝肉が一定の基準を満たした場合に、「但馬牛たじまぎゅう」の呼称の代わりに用いることが出来る牛肉のブランド名。すなわち高級「但馬牛」のことを「神戸牛」という。2009年には米メディアが選んだ「世界で最も高価な9種類の食べ物」にキャビア、フォアグラ、白トリュフらと共に選出されるなど、 日本国外では、欧米を中心に知名度が高く「Kobe Beef」として知られている。日本で一番厳しい認定基準を持つ。 海外で偽物が多く出回ってしまい、ブランド価値が低下する恐れが高くなったので、2012年から海外への輸出が禁止されている。

六甲山

神戸市の市街地の西から北にかけて位置する山塊。瀬戸内海国立公園の区域に指定されており、また日本三百名山、ふるさと兵庫50山の一つ。100万ドルの夜景でも有名である。

近代登山発祥の地

江戸時代までの登山は 山を『ご神体』として山頂を訪れる信仰登山が多かったが、六甲山にはそのような大きな信仰対象は無かった。西洋式の登山としては、1874年に、外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いたいわゆる近代登山を日本で初めて六甲山で行った。1910年には日本初の社会人山岳会である神戸徒歩会が結成された。また1924年にヨーロッパ帰りの藤木九三らによって結成されたロック・クライミング・クラブ (RCC) は岩山である六甲山を活動の場として、日本の登山界に初めてロッククライミングを紹介する役割を果たした。

灘高校

灘地方で酒造業を営む、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立された。設立にあたっては、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎が顧問として参画。治五郎が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」が校是となった。(この嘉納治五郎の影響で柔道の時間が体育とは別に週1時間ある)このため、第二次世界大戦前は柔道部の活躍の方が有名であった。

昭和40年代から徐々に東京大学への進学校として知られるようになり、1968年には東京大学の合格者数首位の座を掴む。現在においても、卒業生の9割以上が東大、京大、国立医学部に進学する日本屈指の進学校。「日本一頭がいい高校」と言われている。2013年には、理V27人、京医24人という驚異的な実績を誇っている。灘高校の一学年は220人である。

見どころ

北野異人館

北野町山本通には外国人の住宅が多数残っており、1977年放送のNHK連続テレビ小説『風見鶏』などで北野異人館街として広く知られるようになり、その一部が公開され観光名所にもなっている。「異人館通り」とは山本通の別称である。


南京町

神戸市中央区の元町通と栄町通にまたがる狭いエリアの通称で、中国風の意匠を特徴とするチャイナタウンである。横浜中華街、長崎新地中華街とともに日本三大チャイナタウンの一つに数えられ、東西約200m、南北110mの範囲に100あまりの店舗が軒を連ねる。


六甲山

大都市に隣接する六甲山は、市街地から車やケーブルカーなどを利用して1時間足らずで登ることができ、山の利用者は、年間1,000万人以上にもなるとのこと。


有馬温泉

日本三古湯の一つであり、林羅山の日本三名泉や、枕草子の三名泉にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた。名実ともに日本を代表する名泉の一つである。


明石海峡大橋

兵庫県神戸市垂水区東舞子町と淡路市岩屋とを結ぶ、明石海峡を横断して架けられた全長3,911m、中央支間1,991m世界最長の吊り橋である。愛称はパールブリッジ。


ルミナリエ

神戸市の旧居留地において、1995年から毎年12月に行われている祭典。通りや広場を独特の幾何学模様で構成されたイルミネーション(電飾)で飾り、昼間とは異なる風景を現出させてその景観を楽しむ。


ポートアイランド

神戸港内にある人工島。神戸大橋及び港島トンネルによって神戸中心部と結ばれ、都市機能を一通り備える。2005年には神戸空港が新たに作られた。


生田神社

神功皇后以来の歴史を有する。現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」という地名の語源となる。地元では「生田さん」として親しまれている。


王子動物園

関西三大動物園のひとつ。総面積は80,618m2、日本で唯一、ジャイアントパンダとコアラを同時に見ることができる動物園である。


須磨寺

真言宗須磨寺派大本山。平敦盛遺愛の「青葉の笛」や弁慶の鐘、敦盛首塚、義経腰掛の松など、多数の重宝や史跡が存在する 。源平を偲んで訪れる文人も多く、境内には正岡子規・松尾芭蕉句碑がある。


太山寺

天台宗の仏教寺院。南北朝時代の南朝方勢力として支院41ヶ坊に僧兵を有していた往時の繁栄をしのばせる大規模な本堂は国宝で、国の重要文化財は仁王門、阿弥陀如来坐像をはじめ18件を数える。また安土桃山時代の枯山水名園、安養院庭園は国の名勝に指定されている。


とう利天上寺

灘区摩耶山町にある仏教寺院。摩耶夫人(釈迦生母)を本尊とする日本唯一の寺である。最も栄えた頃は3,000人の僧を擁する摂津地方第一の大寺だったと伝わる。


長田神社(ながたじんじゃ)

廣田神社、生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社とされる。神戸を代表する神社の一つ。延喜式神名帳では名神大社、更に祈雨八十五座に列され、社に奉祀する神戸(かんべ)41戸によって護持されていた。「神戸(こうべ)」の地名は、この神戸職に由来している。


湊川神社

楠木正成を祭る神社。地元では「楠公(なんこう)さん」と呼ぶ。楠木正成は理想の勤皇家として崇敬されたので、幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、国家による楠社創建を求めるに至った。明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、湊川神社が創建された。

楠木正成

河内に本拠地をおいた武将で、1331年に後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎌倉幕府倒幕に貢献する。建武の新政後の足利尊氏の反乱において、九州から京都に向かう尊氏を摂津国湊川の地で迎え打ち、新田義貞らとともに戦うが、1336年に敗退し自刃する。大楠公と呼ばれる。

配祀神の楠木正行は主祭神・楠木正成の子息である。正成が大楠公と呼ばれるのに対して、楠木正行は小楠公と呼ばれる。正行は大楠公の死後も南朝側として戦い、河内の四條畷の戦いで破れて自刃。1890年には正行を主祭神とする四條畷神社が創建されている。

配祀神の楠木正季は主祭神・楠木正成の弟である。兄とともに湊川の戦で敗れる。『太平記』では、兄と刺し違えて死んだとされ、死に際に「七生滅敵」と誓ったと描かれている。

幕末、維新志士たちは、武家政権を倒し天皇親政を実現しようとした南朝の忠臣らを自らに重ね、彼らを理想とした。特に楠木正成はその忠臣の筆頭に挙げられ、多くの維新志士が彼の崇拝者となり、その祭祀を行った。
明治維新の意義は、公的には神武創業に回帰するという意味が岩倉具視らの強い主張により与えられたが、実際の倒幕運動は神武創業というよりはむしろ建武の新政を理想として行われたものであった。それは江戸時代に儒学の興隆によって興った南朝正統論に起源するものである。

明治維新が実現すると、楠木正成は、皇室に忠義を尽くした第一の功臣として顕彰され、神社が建てられることとなった。神社の創建には薩摩藩、尾張藩、水戸藩などが主導権を争ったが、最終的に神社は国家が祀るものとして、政府が主導して建てられた。 湊川神社の創建は、これに続く南朝関連の人物を祀る神社創建の嚆矢となり、別格官幣社に代表される、功績のあった人物を神社に祀る風習のさきがけとなるなど、近代神社史上、無視できない重要な位置を占めることとなる。 また、楠木正成のエピソードに基づく「七生報国」の語は戦時中のスローガンとなった。

楠木正成の英雄化

「水戸黄門」として知られる徳川光圀は、若い頃に『史記』伯夷伝を読んで衝撃的な感銘を受け、人の心をうつのは史書しかないと思い、日本の史書編纂を志す。儒学に基づく尊皇思想と史書編纂の考証を通して、足利幕府が擁立した北朝ではなく、吉野などを拠点とした南朝を皇統の正統とする史論に至った。当然それは南朝側武将への顕彰に繋がり、『太平記』によって英雄化された楠木正成はその一番の忠臣として挙げられた。こうして、光圀は楠木正成の顕彰のための建碑を思いついたのである。

この墓碑創建には、光圀の家臣、広く「助さん」として知られる佐々介三郎宗淳と廣嚴寺の僧侶の千巖も重要な役割を果たす。もともと僧侶だった佐々宗淳(佐々十竹)は、楠木正成墓碑建立の実務を総括することとなる。

1691年に碑文の陰刻を終えて、建碑は完了した。建碑にかかった費用は金183両3分と銀8匁3分8厘であると言われている。

次いで1695年に、建碑とこれまでの楠公墓維持の功績に報い、これからの楠公碑の維持管理のためとして廣嚴寺の堂宇を造営した。同時に楠公墓碑が烏などによって汚されるのを恐れて、碑を覆う堂を建てている。 これらにかかった費用は実に1500両となる。

その後、尼崎藩では1751年尼崎藩主松平忠名が燈籠を寄進する。その後、松平忠興まで代々の藩主が寄進している。

また1759年、楠木正成の末裔と称する江戸の楠伝四郎なる者が、西国街道から墓に至る参道を作っている。楠伝四郎は付近の土地を買い上げ、廣嚴寺に寄進し、参道としたのである。その参道の規模は長さ65間(約110m)、幅2間(約3.6m)だったという。

1813年には、地元の大庄屋の平野本治という者が周辺の土地を買い上げて墓域を拡張した。平野本治は300坪を寄進し、周辺の有志・廣嚴寺からも寄進され、340坪となった。

こうして、光圀の建碑の後も度々整備され、楠公墓所は正成を崇拝する者たちの聖地となり、のちの湊川神社創建の基盤となることになったのである。

その他の見どころ

花時計、うろこの館、須磨離宮公園、蓬莱峡(ほうらいきょう)、メリケン波止場などがある。


PR

楽天商品ランキング

TOP