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偉人伝

赤松円心

室町幕府設立の功労者

鎌倉時代から南北朝時代の武将、守護大名である。播磨守護。本名は則村。円心は法名。護良親王の令旨を受けて、1333年1月苔縄城に挙兵した。5月足利高氏(尊氏)と共に六波羅を攻め落とした。その功により建武政権で播磨守護職を与えられたが,まもなく理由なく取り上げられ新政に不満を抱くようになる。

1335年尊氏が新政権に反して関東に向かうとこれに応じ、次男貞範を同行させた。翌年2月尊氏が、京都で北畠顕家らに敗れて九州に西走するとき、光厳上皇の院宣を奉じて朝敵となるのを免れたのは則村の発案によるといわれる。
次いで播磨白旗城に立てこもって新田義貞率いる尊氏追討軍の進撃を阻み、尊氏の再上洛を助けた。11月に尊氏が室町幕府を開くと播磨守護に復帰、長男範資は摂津、次男貞範は美作の守護に任ぜられた。1350年の観応の擾乱では尊氏・高師直方に与し、播備国境の船坂峠を固めて足利直冬の進軍に備えたが、その直後京都七条の自邸で病死した。

春日局

大奥の制度を確立

安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。本名は斎藤福。明智光秀の家老斎藤利三と稲葉通明(一鉄)の娘の安との子。
江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。
また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。

1604年家光の乳母に正式に任命される。家光の両親である2代将軍秀忠と御台所お江与の方(崇源院)が2歳下の弟忠長を溺愛したため家光の次期将軍の座が危うくなるや、局は伊勢参宮を口実に江戸を出て、駿府の大御所家康に直訴した。その結果、家康の計らいにより家光の世嗣としての立場が確立する。

1629年天皇に拝謁し、春日の局号と緋袴を賜った。その際、武家である斎藤家の娘の身分では天皇に会う資格が無かった為に、公卿三条西家の養女となりその資格を得た。
その後、1632年に再度天皇に拝謁し、従二位に昇叙した。これは同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。

局は大奥の制度を整え、掟なども制度化したという。また大奥を掌握したのみでなく,表に対しても発言力があった。老中堀田正盛,松平信綱らも年少のころから家光の側近くに仕え、局の大きな影響を受けて育った。
局の縁故により前夫正成は2万石の大名となり、長男正勝は老中に出世し、兄斎藤利宗・三存も旗本に取り立てられた。局自身も代官町と春日町に屋敷を賜り、3000石を領した。

没後は自らが建立した江戸湯島天沢寺(麟祥院)に葬られた。今も麟祥院に残る緋袴を着した春日局像は、局の還暦祝に家光が狩野探幽に描かせたものといわれる。

柳田國男

日本民俗学の開拓者

「日本民俗学」の創始者で、近代日本を代表する思想家。

1875年兵庫県神東郡田原村辻川で父松岡操の六男として生まれる。その後、東京大学で農政学を学ぶ。
大学卒業後、「農政官僚」となり、1901年に信州飯田藩出身の柳田家の養嗣子となる。
視察や講演旅行で日本各地の実情に触れ、普通の人々への関心を深め、文書に書かれた政治や事件が中心の従来の歴史学を批判、名もなき庶民(常民)の歴史や文化を明らかにしたいと考え、「常民文化の探求」と「郷土研究」の必要性を説く。

官界では、「貴族院書記官長」という要職を得るが辞任、その後、請われて「国際連盟委任統治委員」に就任したが、関東大震災を機に辞任して、新たなる学問を興すための活動を開始する。日本人の口頭伝承・伝統ことば・固有信仰の収集と研究、出版活動などを精力的に行なう。
特に戦後は、次代を担う若者達のため、日本人のアイデンティティ確立をめざした活動を行い、稲の問題や沖縄研究、さらに教育問題にも情熱を注ぐ。

青年時代に抒情詩人としても注目された柳田の文章は、文学作品としての評価も高いが、 日本人の生活慣習や歴史伝承、民俗信仰を記した『遠野物語』『明治大正史 世相編』『郷土生活の研究法』『日本の祭』、戦後日本人のアイデンティティ再構築のために書いた『先祖の話』、日本人の源流を求めた最後の著作『海上の道』等百数十冊に及ぶ著作は、日本文化史研究上の広範な礎となっている。

宮本武蔵

日本史上最も有名な剣豪

1584年、揖保〔いぼ〕郡太子町宮本生まれとされている。1645年5月19日熊本県で亡くなった。二刀流(円明流,二天一流,宮本流)の開祖。

幼少のころから兵法に心がけ,13歳ではじめて新当流の有馬喜兵衛と試合して勝ち,以後六十余たびの勝負に一度も負けたことはなかった。1612年に舟島(巌流島=下関市)で佐々木小次郎と決闘したのち、大坂両陣に参戦、その後 、小倉藩主小笠原忠真の客分となり、島原の乱に際しては養子伊織と共に軍監として出陣する。57歳のとき肥後熊本藩主細川忠利の知遇を得て、客として熊本千葉城址に住み『兵法三十五箇条』をまとめ、60歳で熊本西郊岩戸山の霊巌洞にしばしば籠り、座禅三昧の暮らしを送り、兵法伝書『五輪書』を執筆した。『五輪書』は二天一流の剣の道をつづるとともに剣禅一如の思想的境地をしめす著作だった。さらに『独行道十九条』をまとめ自戒とした。その1週間後没した。

熊本市竜田町弓削の武蔵塚がその墓とされる。武蔵は剣のほかに書、画、金工などにもすぐれ、非凡な才をしめした。特に水墨画には気魄のこもった鋭い表現がみられ武人画家の最後を飾る。代表作に『鵜図』『芦雁図』『枯木鳴鵙図』などが伝えられる。

黒田孝高

黒田官兵衛の名で知られる天才軍師

戦国・安土桃山時代の武将。通称の官兵衛および出家剃髪してからの如水の名で知られる。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。また、キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。

織田信長の勢力が播磨におよんできたとき、父と共に主家である御着城城主の小寺政職に信長につくことを勧め、1577年、豊臣秀吉を姫路城に迎えた。翌1578年、荒木村重が信長に背いたとき、単身摂津有岡城に乗りこんで説得に当たったが捕らえられ、城中に抑留されるが、翌年、信長により有岡城が落ちたとき救出され、以後、秀吉に重く用いられることになった。

1582年、清水宗治の拠る備中高松城を攻めるとき、地形を見て水攻めが有効であることを秀吉に献策した。また、本能寺の変で信長が殺されたことを知って途方にくれる秀吉に、「天下を取る好機」とけしかけたのは孝高だったといわれている。

その後、山崎の戦、賤ケ岳の戦、そして四国攻めと戦功をあげ、1586年には秀吉本隊の出陣を前に軍奉行として九州に渡り、九州の諸大名に対する勧降工作を精力的に行っている。
九州攻め後、豊前中津城12万石を与えられたが、1589年には家督を子長政に譲った。その後も、完全に引退した訳ではなく、小田原北条攻めに参加したり、関ヶ原の合戦に参戦中の子長政が留守の間に、大友吉統の兵と石垣原で戦い、これを破っている。

秀吉の天下取りに大きな役割を果たしたのに12万石という大名で終わっている。これはあまりに優秀過ぎた為に、秀吉に警戒されたと言われています。

白洲次郎

従順ならざる唯一の日本人

日本の官僚、実業家。終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。
連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商務省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。連合国軍最高司令官総司令部と渡り合う。

1902年芦屋市に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれる。ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学後、父の会社の倒産により帰国。その後、英字新聞の記者となり、妻正子と知り合い結婚。それから日本水産の取締役などを経て、1945年に東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任し、GHQとの交渉の窓口となる。白洲はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。

同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年2月13日、松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ草案(マッカーサー案)を提示されている。15部の英文の憲法草案をすぐ検討するようにと出て行ったという(一時退席)。日本国側が憲法改正案を持ってGHQを訪ねて10分ほどの出来事だったと言われている。
15分後、白州次郎が庭で日光浴をしていたアメリが側を迎えにいくと、ホイットニーは「われわれは戸外に出て、原子力エネルギーの暖を取っているところです」と語った。日光を原子力エネルギーと表現したのだろうが、これは原爆を連想させる。太陽を背にして座ったり、原子力エネルギーという言葉を使ったり、アメリカ側は心理的圧力をかけてきた。

3月2日、日本政府の意見がまとまらないうちに、白州次郎は翻訳者とともにホイットニーに呼び出された。そこで、GHQ内の一室において、一晩で憲法草案の全文を日本語に翻訳するよう要求された。結局、翻訳には3日かかったが、白州次郎らは一睡もせずこの大仕事を成し遂げた。日本国憲法は、国会を従来と同じく二院制にした以外は、ほぼGHQの草案通りになった。日本語訳は、専門の法律学者の手を経ることなく、白州次郎と外務省翻訳官らがGHQ内にカンヅメになってつくったものである。「従順ならざる唯一の日本人」と称された白州次郎も、憲法に関してはGHQの強硬姿勢に従わざるをえなかった。

同年3月に終連次長に就任。8月、経済安定本部次長に就任。1947年6月18日、終連次長を退任する。1948年12月1日、商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。汚職根絶などに辣腕を振るい、商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立した。その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われる。

1951年サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した。この時受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直したのだという。原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた(この話は異論あり)。

その後、外務省顧問を務め、吉田退陣後は政界入りを望む声もあったが政治から縁を切り、実業界に戻った。その後、東北電力会長、荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロホールディングス)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任した。83歳没。遺書は 「葬式無用 戒名不用」のみ書いてあったという。

日本で一番カッコいい男

「僕らはあなたに憧れる」というインターネット上の投票では、ダントツの1位になっている。ちなみに、第3位が坂本竜馬だが、白洲次郎はその10倍の票を獲得している。

白洲次郎の名言

「おれたちは戦争に負けたかもしれないが、奴隷になったわけじゃない!」

日本国憲法について

日本国憲法は白洲次郎らが翻訳したもので、第1条の「天皇は日本国の象徴であり」の「象徴」と言う訳は白洲次郎が決めたと言われている。その彼が終戦2年後の1946年に唯一の著書『プリンシプルのない日本』で、次のように書いている。

憲法を改正するということ自体は私は賛成である。現在の新憲法は占領中米国側から「下しおかれた」もので、憲法なんてものは、国民のもり上った意志でつくるべき本質のものだと思う。占領もすんで独立を回復した今日、ほんとの国民の総意による新憲法が出来るのが当然ではないかと思う。.  長く大事に持っているものは人に貰ったものより自分自身の苦心の結晶に限る。今でも憲法は「どうせアメリカさんの貰いものだ」なんていう様な言葉をよく聞くが、聞くたびにほんとに我々がつくった我々の憲法がほしいものだと思う。

エピソード1

GHQ民政局長ホイットニー将軍が「白州さんの英語は大変立派な英語ですね」とお世辞を言った。そこには、勝者としての奢りが込められていた。これに対して、白州次郎は「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えたという。

エピソード2

1945年12月のクリスマス。マッカーサー司令長官に白州次郎は天皇陛下からのプレゼントを届けた。部屋のテーブルの上はプレゼントでいっぱいだった。マッカーサーは床のどこかに置いていけというという仕草をした。すると次郎は「いやしくも天皇陛下の贈り物である。床などにおけない」と怒りを爆発させた。驚いたマッカーサーは、急いで新しい机を運ばせた。「マッカーサーを怒鳴りつけた男」と言われるのはこのエピソードから。(事実でないという話もあるが、白洲次郎の性格をあらわすエピソードとして記載する)

白戸家のモデル

ソフトバンクのCMでおなじみの白い犬の名前が白戸次郎、樋口可南子が演じているお母さんが白戸マサコです。白洲次郎と白洲正子さんをモデルに作ったとのことです。

CMの隠れた意味

嘉納治五郎

講道館柔道の創始者

東大卒後、学習院教授等を経て東京高等師範学校長を多年務める。また講道館を創設し、その館長として柔道の研究指導に当たり、「柔道の父」と仰がれる。また「日本の体育の父」とも呼ばれる。貴族院議員。日本最初のIOC(国際オリンピック委員会)委員。

1881年、柔術二流派の技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。翌1882年、囲碁・将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。

治五郎は柔術のみならず剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し、各師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。また教育者としても優秀で、学習院教頭、筑波大学校長、熊本大学校長なども務め、日本一の学校であるとされる灘高校、灘中学の設立にも関わっている。

中学人留学生の受け入れにも努め、牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を開いた。のちに文学革命の旗手となる魯迅もここで学び、治五郎に師事した。

日本のスポーツの道を開き、1909年には日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる。1911年に大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年、日本が初参加したストックホルムオリンピック於いては団長として参加した。

1936年のIOC総会で、1940年の東京オリンピック(後に戦争の激化により返上)招致に成功した。 1938年のカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上の5月4日に死去。79歳。

阿久悠

昭和を代表する作詞家

放送作家、詩人、作詞家、小説家。本名、深田 公之(ふかだ ひろゆき)。淡路島出身。

1970年代にオーディション番組の「スター誕生!」で発掘されたアイドルたちの楽曲の作詞を手掛ける一方、演歌、アニソン、特撮ソングまで多くの楽曲の作詞を手掛け、一時代を築いた。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、あのスタイルを考えたのは阿久自身である。「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と提案した。

生涯、作詞した曲は5,000曲以上と言われており、提供した作詞曲のシングル総売上枚数は約6831.9万枚という大記録を残している(2013年に秋元康に抜かれるまで1位だった)。

1977年6月20日付のオリコンシングルチャートで、阿久悠作詞の「勝手にしやがれ」(歌・沢田研二)が首位を獲得する。それ以降、12月5日付首位の「ウォンテッド (指名手配)」(歌・ピンク・レディー)まで、25週連続で阿久悠作品が首位を獲得。ほぼ半年にわたり首位を取り続けるという前人未到の記録を打ち立てた。またこの年は他に、「北の宿から」(歌・都はるみ)、「青春時代」(歌・森田公一とトップギャラン)なども首位を獲得。阿久悠作品は年間39週(約9か月)首位を獲得した。

小説家としても優秀で、映画化もされた『瀬戸内少年野球団』は直木賞候補にまでなり、『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。長編小説『ラヂオ』は第38回ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞を受賞する。2007年に尿道癌になり死去。70歳だった。

代表となる曲は、「また逢う日まで」尾崎紀世彦、「北の宿から」都はるみ、「勝手にしやがれ」「時の過ぎゆくままに」沢田研二、「UFO」「ウォンテッド (指名手配)」「サウスポー」「モンスター」ピンク・レディー、「雨の慕情」八代亜紀、「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行、「津軽海峡・冬景色」石川さゆり、「宇宙戦艦ヤマト」ささきいさお、西武ライオンズ・福岡ダイエーホークスの球団歌、「デビルマンのうた」、「どうにもとまらない」「狙いうち」山本リンダ、「学園天国」フィンガー5、「君よ八月に熱くなれ」高岡健二など多数。

山名宗全

応仁の乱の西軍総大将

室町時代の武将、守護大名。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。名は持豊(もちとよ)。宗全は法名。応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。一休宗純は宗全のことを「業は修羅に属し、名は山に属す」と風刺し、毘沙門天の化身だと言っている。

宗全は山名時熙の次男で兄・持煕が足利義教の勘気にふれ、廃嫡されたことにより山名氏の家督を継いだ。山名氏は曽祖父・時氏、祖父・時義の代には全国66ヵ国の内12ヵ国の守護職を得て六分一殿、六分一家衆と呼ばれていたが、明徳の乱により山名氏の勢力は大きく衰退していた。

しかしながら、嘉吉の乱で足利義教が赤松満祐に討たれると侍所頭人として、赤松氏追討の主力となり、乱後、赤松氏の旧領を得るなど、山名氏の領国は増え、六分一殿といわれた時代に迫る勢いを示した。
持豊は拡大した分国を維持するため娘を細川勝元に嫁がせるなど慎重に保全策を巡らしたが、細川氏が山名氏を牽制するために赤松家の再興を支援するようになると次第に対立するようになり、同じ頃、三管領の畠山家、斯波家では家督相続問題が起こり、畠山政長、斯波義敏が細川勝元を頼ったため、彼らと対立する畠山義就、斯波義廉は持豊を頼ることとなった。

さらには足利将軍家の継嗣争いが加わり、勝元が足利義視(義政の弟)の後見人を引き受け、日野富子が対抗して宗全に足利義尚(義政の子)の後見を依頼したことにより両者の対立は決定的なものとなり、1467年に応仁の乱が勃発した。

宗全の西軍は当初こそ「公方の御敵」とされ、劣性であったが、大内政弘が大軍を率いて上洛、西軍方に加わったことにより、両軍の勢力は互角となり、戦局は長期化の様相を呈するようになった。膠着状態が続く中、未曽有の争乱は地方にも拡大、勝敗が決まらないままに、1473年3月に宗全が病死、続いて勝元も5月に病死した。翌年5月にそれぞれの家督を継いだ山名政豊と細川政元との間で和睦が成立したが、世はすでに戦国時代に入っていた。

樋口季一郎

2万人のユダヤ人を救った男

イスラエルには世界的に傑出したユダヤ人の名を代々登録し、その功績を永遠に顕彰する「ゴールデン・ブック」という本がある。その中に、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達にまじって、「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名が刻まれている。淡路島生まれの陸軍軍人。

オトポール事件

1937年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。
この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。

1938年3月、ユダヤ人18名がナチスの迫害下から逃れるため、ソ連と満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めされていた。
樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った。

その後も難民は増え続け、JTBの記録によると、満州から入国したドイツ人(ユダヤ人)は、1938年、245名となっている。松井重松(当時、案内所主任)の回想録には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。

オトポール事件については、当初2万人のユダヤ系避難民が救われたとされ、あまりの数の多さに事件の存在自体が疑問視されていた。これは樋口の回顧録の誤植から流布した数字であり、樋口の遺品から18名の写真が発見されるなど、真相が解明されつつある。

対ソ連戦闘

1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。アッツ島玉砕、キスカ島撤退を指揮し、キスカ島撤退作戦では救援艦隊の木村少将の要請を容れ、大本営の決裁を仰がずに独断で在留軍に、小銃を含めたあらゆる武器の海中投棄を指示して、乗船時間を短縮し撤退の成功に貢献した。

敗戦後にも、占守島、樺太における対ソビエト軍の戦闘を指揮し、占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与えた。

そのためスターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。
世界ユダヤ協会はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。

世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否して、樋口の身柄を保護した。


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