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県名の由来

「兵庫」の由来は、天智天皇の治世に兵の武器の倉庫の意味である「つわものぐら(兵庫)」があったことから由来する。(諸説有)

旧国名

旧国5国にまたがる県

県域は古代の播磨国全域、但馬国全域、淡路国全域、摂津国有馬郡、川辺郡、武庫郡、菟原郡、八部郡、丹波国多紀郡、氷上郡に跨る。

平安時代以前

日本の首都があった

古墳18,351ヵ所は日本第1位、遺跡28,882ヵ所は日本第2位であり、上古より拓けていた地が多いとされます。県内各地を豪族が支配していましたが、朝廷の力が及ぶと県域に摂津(西部)・播磨・但馬・淡路・丹波(氷上郡・多紀郡)の5カ国が置かれ、それぞれの国に、都から国司と呼ばれる役人が派遣されて地域を支配し、税の徴収などを行いました。平安時代には、兵庫の地に「大輪田の泊」という港が作られ、瀬戸内海を往来する船の寄港地となっていました。この港を平清盛が宋(現在の中国)との貿易の拠点として大規模に修築しました。一時は、清盛によって都が移され(福原京)、周辺は平氏や源氏の軍勢による合戦の舞台ともなりました。

鎌倉時代

鎌倉時代になると「大輪田の泊」の名はしだいにすたれ、「兵庫津」という名で呼ばれるようになり、東大寺などの寺院が港を出入りする船から税を徴収し、港の修理等を行っていました。

室町時代

将軍足利義満が明(現在の中国)との貿易を始めると、兵庫津は遣明船の発着港となり、国際貿易港としてますます発展して行きました。県域内では、農漁業のほか、製塩業(淡路)、酒造業(摂津)、製紙業(播磨・但馬)、鉄や銅の製産といった産業が起こっていました。

戦国時代

県域はたびたび戦乱に見舞われることになります。足利尊氏、楠木正成、新田義貞といった南北朝時代の武将をはじめ、細川氏や山名氏、赤松氏らの守護大名、また、豊臣秀吉・明智光秀・荒木村重らの戦国武将が県域で合戦を行いました。兵庫津も、池田信輝により兵庫城が設けられ、城下町として整備されますが、このころには、国際貿易の舞台は堺に移っていました。

江戸時代

県域に領地を持つ大名たちが、城と城下町の整備をします。現在、世界文化遺産に登録されている姫路城は、池田輝政が壮大な城に築き直したものです。このころ、県域内では、綿作・菜種作、酒造業、製紙業、鉱業のほか、絞油業、綿織物や柳行李、縫針の製産、金物業、製塩業、窯業、養蚕業などの産業がさかんになりました。

また、摂津地域の漁民は、綿作・菜種作などの肥料になるイワシを求めて関東などへも出漁していました。 兵庫津は、江戸時代になって、上方と日本海側地域を結んで交易を行う北前船の基地として再生し、寄港地となった但馬沿岸も賑わいました。工楽松右衛門や高田屋嘉兵衛、北風荘右衛門といった大商人が生まれ、蝦夷地(今の北海道)の開発や交易で活躍しました。

後期になると、しだいに世直しの気運が高まり、一揆や打ちこわしが頻発します。さらに、鎖国政策をとっていた幕府に対し、欧米諸国は、兵庫津での貿易を求めましたが、兵庫は天皇のいる京都に近かったこともあり、なかなか開港が許可されませんでした。

それでも、1868年1月1日には、兵庫(神戸)が国際貿易港として開港し、近代兵庫への第1歩を踏み出します。


姫路城

明治時代

初代県知事伊藤博文

神戸が開港してまもなく江戸幕府が倒れて明治新政府ができると、外国と交渉を行い、神戸港や神戸港周辺の旧幕府領を管理するために、兵庫鎮台、兵庫裁判所を経て兵庫県が置かれます。初代県知事として伊藤博文が就任します。

その後、県は、官民混合の議員が行政的事項を協議する地方民会や、医学所の開設など、他府県に先駆けて開明的な施策を実施していきます。

このころは、まだ世情も不安定で、外国兵との衝突事件(神戸三宮備前兵事件)や、淡路の分藩独立運動に対する襲撃事件(稲田騒動)、地租改正や身分制廃止に反対する一揆などが起こっています。

1871年には、廃藩置県によって大名が支配する地域はなくなり、1876年の府県の統廃合によって飾磨県(播磨全域)及び豊岡県の一部(但馬全域と丹波の氷上・多紀2郡)、名東県の一部(淡路全域)を併合して、ほぼ現在の県域が確定することになります。

神戸三宮備前兵事件

1868年1月、江戸幕府最後の将軍であった徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、大阪を脱出するなどしていました。

1月1日、新政府によって西宮の警備を命ぜられた備前(岡山)藩の兵隊が神戸の三宮神社前を行進していたとき、外国の水兵が隊列を横切ったのがきっかけで、藩兵が発砲し、英・仏・米の守備兵がこれに応戦しました。外国側は、大阪湾内の諸藩の艦船6隻をすべて抑留し、神戸にあった居留地(当時は造成中)を軍事的に占領しました。

発足したばかりの新政府にとっては、諸外国を敵に回しかねない緊急事態でしたが、備前藩士 瀧善三郎を事件の責任者として、外国士官立会いの下に兵庫の永福寺で切腹することで落着しました。
このとき、新政府の外国事務掛として神戸にいた伊藤博文は、外国人に死者がなかったことを論拠に、外国代表に瀧の助命を求めましたが、受け入れられませんでした。

新政府は、事件の敏速な処理によって、最初の外交的危機を脱しただけでなく、かえって新政府が権力を持っていることや外国と友好関係を深めようとしていることを外国側に証明することになりました。


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