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岩倉具視

維新の十傑の1人

1825年生まれ、1883年没の日本の公家、政治家。維新の十傑の1人。五百円紙幣の肖像画だった人物。玄孫に日本の俳優の加山雄三がいる。

天皇を中心とした政治国家・王政復活に尽力した公家方のリーダー。王政復古の実現に大きな影響を与えた。
岩倉使節団として欧州に渡り、日本の近代化や先進国との不平等条約の条約改正に尽力する。公武合体派として和宮降嫁を推進したことや西郷隆盛らの征韓論を阻止したことでも有名。

誕生

1825年、前権中納言・堀河康親の次男として生まれる。
幼少の頃より知恵物で通り、その才を買われて、14歳の時、岩倉具慶の養子となる。岩倉家は村上源氏久我家の流れを組む家柄であったが、当時財政難の朝廷においても極貧といえる、禄高150石の下級公家であった。 その為、朝廷での発言力も弱かったが、五摂家の鷹司政通に接近し、その力を背に、権力を伸ばしていった。

台頭

1854年、孝明天皇の侍従となる。
1858年、老中・堀田正睦が日米修好通商条約締結の勅許を求め上洛してきた。勅許の内容について、朝廷内の意見が統一されない中、大老・井伊直弼と連携していた関白・九条尚忠が「幕府に全て委任する。」という案を出した。これに反対した岩倉は、同調する公卿88人を集めて参朝し、九条家を批判する書状を提出させた。これによって、九条案は撤回され勅許は与えられなかった。

結局は、幕府が勅許なしに条約の締結を強行するのだが、この事件によって、岩倉は朝廷内有数の実力者へとのし上がった。

和宮降嫁

安政の大獄が始まると、朝廷の要人に被害が及ぶのを避けるため、公武合体論を説いて回った。 そしてこれが、将軍・家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚姻へと繋がる(和宮降嫁)。

岩倉としては、朝廷の復権のための目論見であったのだが、尊攘急進派の公卿や志士などからは、この婚姻は幕府に有利に働いたとして、攻撃の的となり、1862年、辞官落飾を命じられ、襲撃を恐れて各地を転々とし、洛北岩倉村で、名を友山と改め蟄居生活を送ることとなった。

蟄居時代

不遇な蟄居生活を送る中、王政復古の実現を思い描き、訪れる西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎・中岡慎太郎・坂本龍馬らと交流を持った。 中でも、大久保ら薩摩藩とは連絡を密にしていた。

復帰

1867年に明治天皇が16歳で即位すると、薩摩藩の朝廷工作もあり、追放された公家達の復帰が赦される。 岩倉自身は、すぐに復帰はならなかったが、各方面と関係修復を図り、将軍・慶喜にも大政奉還を迫るなど、王政復古派公卿の中心人物として、その地位を固めていく。

政権のトップへ

1863年の政変で都落ちし、大宰府にあった三条実美とも和解し、同年、薩長に対し討幕の密勅を下した。 幕府は、これを事前に察知し、徳川家存続を図り、大政奉還を行った。

薩摩の大久保らと画策し王政復古の大号令を実現する。 その晩の小御所会議では、慶喜を擁護する土佐の山内容堂が激しく反論したが、明治天皇の御前で「幼い天子を利用し・・」と発言したのを逆手に取り、容堂を一喝、会議は岩倉ら討幕派の思惑通りに進行した。

その後、新政府の参与、議定、副総裁、外務卿などの要職を歴任。三条実美と共に政権のトップへ上り詰める。

岩倉使節団

1871年、右大臣になると、不平等条約の条約改定交渉の特命全権大使として、使節団を率い欧米へ向け渡航する。
岩倉使節団は、アメリカの近代国家ぶりやイギリスの工業技術に圧倒され、条約改正どころではなく使節団は各国への留学が主要目的となった。

「征韓論」論争

古代には朝鮮半島の南方の支配権を持っていたので、江戸時代後期の勝海舟などは朝鮮進出を考えていた。

しかし、日本は対話により朝鮮の開国・国交を望み、対馬藩を介して朝鮮に対して、新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが拒否された。
明治政府は再度使者を派遣するが、朝鮮側の態度のひどさに憤慨した使者が征韓を建白した。
さらに使者を2度使者を送るが朝鮮側が応じず、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。

板垣退助は居留民保護を理由に派兵を主張したが、西郷隆盛は派兵に反対し自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎などもこれに同意し、明治政府は派遣を決定したが、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通などが反対し、太政大臣代理だった岩倉具視の意見が明治天皇に受け入れられ、遣韓中止が決定された。

それにより、西郷隆盛などが下野した。

死去

井上毅などの具申を受けて、憲法改定の必要性を痛感した岩倉具視は伊藤博文に憲法制定を任せたが、大日本帝国憲法の制定を見る前に死去。死因は癌だった。癌の告知を受けた日本初の患者だと言われる。享年59歳。

本阿弥光悦

マルチアーティスト

1558年生まれの1637年没。
「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として有名。その書流は光悦流の祖と仰がれる。
また書家以外にも陶芸家、芸術家としても有名で、漆芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す。光悦は、洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。

俵屋宗達、尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。

細川忠興

天下一気の短い人物と評された武将

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。

足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。大変な戦上手で、政治家としても優れていた。

織田時代

1577年、15歳で信長の紀州征伐に加わり初陣を飾るが、血気にはやり危うく命を落としそうになる。その武勇が信長に評価された。
同じ年に信長から離反した松永久秀の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父やその僚友・明智光秀と共に落とし(信貴山城の戦い)、信長直々の感状を受けた。

1579年、信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼした。また、同年には信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(ガラシャ)と結婚する。この時、信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった。

本能寺の変

1582年、岳父・明智光秀が本能寺の変を起こし、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、細川父子はこれを拒否した上、玉子を丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。

細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれている。このように本能寺の変において、忠興は早々に旗幟を鮮明にしたため、光秀との内通を疑われ討伐されることもなかった。その後、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じ、秀吉から丹後全域の領有を許された。

豊臣政権下

1584年の小牧・長久手の戦いに参加し、翌1585年には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた。その後も1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐に従軍した。1588年、豊臣姓を下賜される。

1592年からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。

長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。翌1593年の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。

1598年秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、福島正則らの三成襲撃に加わった。
同年、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え九州豊後杵築6万石が加増された。これにより、都合18万石の大名となった。

関ヶ原の合戦

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍(家康側)に与した。
豊臣恩顧の武将として去就が注目されていたが、いち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。

大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、人質となることを拒んで自害を余儀なくされた。このことに関連して、忠興は嫡男・忠隆を廃嫡している。

東軍の勝利に終わった関ヶ原の合戦の論功行賞で丹後12万石から豊前33万9,000石に国替のうえ加増となった。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので豊前中津藩39万9,000石の大大名となった。

徳川時代

1620年、病気のため、3男の忠利に家督を譲って隠居する。1632年、忠利が豊前小倉藩40万石から肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に加増・移封される。

妻・ガラシャ

明智光秀の三女で細川玉子のこと。細川忠興の正室。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。

明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広くこのように呼ばれる場合が多い。

夫の忠興が上杉征伐に出向いている隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。
その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。ガラシャは人質にならぬよう、屋敷に火をかけて自刃した。

ガラシャの死は、ラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア(=ガラシャ)」として、神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日の祝いに初演された。ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していたが、そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容の戯曲が創作される結果となった。
この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれたとされる。

足利義昭

室町幕府最後の将軍

室町幕府第15代将軍。

将軍になるまで

次男であった為、慣例により仏門に入って「覚慶(かくけい)」と名乗り一乗院門跡となった。兄義輝らが松永久秀らに暗殺されると、美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。

織田信長との対立

新将軍として幕府を再興した義昭はまず織田信長の武功に対し幕閣と協議した末「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。
信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために和泉守護に任じた。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。
しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。

幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。
信長は将軍権力を制約するために、殿中御掟という9箇条の掟書を義昭に承認させた。さらに翌年、5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。

信長の専横に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如や甲斐の武田信玄らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。

1572年、信長は義昭に対して義昭を批判する17条の意見書を送付した。これによって義昭と信長の対立はが表面化し、義昭は挙兵。
東では武田信玄が上洛を開始し、三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなど、信長は窮地に陥いる。

1573年、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じずこれを一蹴した。
義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。

その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は本国への撤退を始める。信玄はその途中に死去した。
信長は京に入り知恩院に陣を張った。義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。

信長は講和の使者を送るが、義昭はこれを拒否。
信長は武力による圧力と朝廷への工作により勅命による講和が成立した。しかし、3か月後に義昭は講和を破棄。南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。

織田軍が攻撃を始めると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。

備後への下向

信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を信長は自領とした。

義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続け、一般的にはこの時点をもって室町幕府の滅亡と、現時点の歴史書では決めている。
しかし京都から追放されたとは言っても義昭は征夷大将軍であり続けたと公式記録(公卿補任)には記されている。そのため近畿周辺の信長勢力圏以外(北陸・中国・九州)では、追放前と同程度の権威を保ち続けた。

1588年に関白豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍を辞し、名実ともに室町幕府が終焉を迎えた。秀吉からは山城槇島において1万石の領地を認められた。
1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。

文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前名護屋まで参陣している。

晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる。

1597年、大坂で薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。享年61。

下村脩

ノーベル化学賞受賞者

名古屋大学出身の生物学者(有機化学・海洋生物学)。ボストン大学名誉教授、ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員、名古屋大学特別教授。

生物発光研究の第一人者

有機化学・海洋生物学を専門とする生物学者、中でも生物発光研究の先駆者であり第一人者。名古屋大学、プリンストン大学、ボストン大学、ウッズホール海洋生物学研究所などに在籍し、発光生物についての研究を継続。その中のひとつ、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質の発見は、その後生命科学、医学研究用の重要なツールに発展して2008年のノーベル化学賞受賞に結びついた。

活動

旧制長崎医科大学附属薬学専門部(長崎大学薬学部の前身)に進学し、1951年卒業。
薬学専門部卒業後、武田薬品工業の研究職を志すが、面接担当者に「あなたは会社員に向きません」との忠告を受け断念。
就職試験に落ちた下村は長崎大学薬学部の安永峻五教授のもとで実験実習指導員を4年間務めた。

安永は下村を研究者として育成し幅広い知識を習得させるため、分子生物学で有名な名古屋大学理学部の江上不二夫教授のもとに1年間内地留学させたいと考えた。

1955年、安永と下村は、名古屋大学を訪れたが、江上は不在。代わりに応対した有機化学の平田義正教授は、「私の所にいらっしゃい」と下村に言った。下村は、分子生物学も有機化学も当時は知らなかったので、天の指図だと思い平田教授の有機化学研究室に行くことを決めた。

1955年から平田の有機化学研究室に研究生として所属。平田から与えられた研究テーマは「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶化」だった。
これは、プリンストン大学のグループが20年以上も前から解決しようとしていた、極めて難しい問題であった。

下村は、研究に没頭。10か月後の1956年2月に、努力が実を結び「ウミホタルのルシフェリンの結晶化」に成功した 。
27才の下村の成し遂げた業績であった。

1959年には、長崎大学の助手となる。
1959年、プリンストン大学の フランク・ジョンソン教授は下村の論文に感銘を受け、プリンストン大学に招聘、下村は受諾した。

平田はハーバード大学留学体験から博士の学位により報酬が倍増されることを知っていたため、博士課程の学生ではなかった下村に博士号を与えた。

帰国後、名古屋大学の助教授に就任。結婚して長男を授かる。安定した生活をしていたが、それを捨て再び渡米し、研究の拠点をアメリカに移す。

2001年にはボストン大学名誉教授となる。
プリンストン大学時代にフライデーハーバー実験所で行ったオワンクラゲからのイクオリンおよび緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見(1962年)とその後の研究は生物発光の学問の世界にとどまらず、今日の医学生物学の重要な研究ツールとして用いられ、医学臨床分野にも大きな影響を及ぼしている。
主たる研究活動の場が米国であったためノーベル賞受賞まで日本での知名度は低かった。

池田菊苗

「うまみ」の生みの親

1864年生まれの1936年没。日本の化学者。東京帝国大学(現東京大学)理学部化学科教授。現在、世界中で広く普及しているうま味調味料、L-グルタミン酸ナトリウムの発見者として知られる。「日本の十大発明」のひとつといわれる。

味の素株式会社

幼少期より昆布のだしに関心を持ち、湯豆腐のだし汁昆布の研究に着手。1907年に約38 kgの昆布から煮汁をとり、うま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウム約30 gを得ることに成功。1908年には「グルタミン酸を主要成分とせる調味料製造法」に関する特許を出願し、3か月後に特許登録された。池田から事業経営を任された鈴木三郎助(当時鈴木製薬所代表)により、「味の素」という商品名を付けられ、製造販売。その後、味の素株式会社へと発展した。

うま味

甘味、酸味、塩味、苦味に次ぐ第五の味とされる「うま味」の存在に関しては長く学界で議論されてきたが、その後、舌の味蕾に存在する感覚細胞にグルタミン酸受容体が発見されたことから味覚のひとつとして認められるようになり、日本語のUMAMIのままで世界に通用するようになった。

富岡鉄斎

日本最後の文人

1837年生まれの1924年没。明治・大正期の文人画家、儒学者。日本最後の文人と謳われる。父は法衣商。国学・儒学・仏典を修め、歌人太田垣蓮月に学ぶ。1868年から各所の神社の宮司を務め、神社復興に尽力。14年以降は京都に戻り、学問と画業に専念し、南画壇の重鎮となった。大正6年(1917)に帝室技芸員、8年に帝国美術院会員。最晩年まで盛んな制作活動を行い、独自の画境を築きあげた。

宮本茂

マリオの生みの親

ゲームクリエイター、任天堂株式会社 専務取締役情報開発本部長。同社のゲームソフト開発の中心的存在。愛称に「ミヤホン」「ミヤポン」。任天堂を世界的大企業に押し上げた功労者の一人である。「ドンキーコング」、「マリオ」、「ゼルダ」、「ピクミン」の生みの親。

任天堂入社

1977年に金沢美術工芸大学を卒業後、任天堂に入社。
入社直後はかるたの版下のデザイン、麻雀のラベルなど小さな仕事をこなしていたが、1979年頃からゲーム筐体のデザインを数多く手がける。

入社3年目の1980年に転機が訪れる。
NOA(任天堂のアメリカ支社)で在庫問題が起きた際に、NOAの社長荒川實は在庫処分のため、「新しいゲームを作ってROMだけ送ってくれ」と任天堂本社に依頼した事を受け、任天堂本社で新しいゲームを誰に作らせるかというコンベンションが開かれることになった。

その際に横井軍平が、従来のようにハード側の人間ではなくソフト側の人間に作らせれば新しいゲームが出来るのではないかと考え、宮本を推薦した。
宮本はキャラクターを描き直し、ゲーム内容について宮本茂が積極的にアイデアを出し、プログラミング以外をほぼ1人で担当し、最終的に『ドンキーコング』として完成させた。
『ドンキーコング』は世界的な大ヒットになり、またマリオというキャラクターを生みだすきっかけになった。

任天堂の山内社長の「100人の凡才より1人の天才」という考えから任天堂ゲームの中心的開発者となり、情報開発部(現・情報開発本部)の開発課長に就任。
1996年、情報開発本部に格上げされ、宮本は情報開発本部情報開発部長に就任。1998年、情報開発本部長に就任。2000年6月、取締役に就任。2002年5月31日、代表取締役専務に就任。

過去には、マイクロソフトがゲーム業界に参入する際、任天堂を数兆円で丸々買収しようとした話もあり、その任天堂のゲームソフト開発の中心人物である宮本茂を「現在の給料の10倍」で引き抜こうとしたこともあった。

宮本の地位から言えば日本円で軽く年収10億円は超える提示に、宮本は「(任天堂には)仲間がいるから」と言って断ったと発言している。

影響力

2007年にはアメリカの『TIME』の企画「今年世界に最も影響力のある100人」に関連して行われた読者アンケートで第9位に入っている。
イギリスの“Develop Conference”で行われた“ゲーム開発者にとっての開発業界のヒーロー”(game developers' game development hero)にも、世界中のクリエイターから集計された9000票の内の3分の1もの票数を獲得し、ヒーローに選ばれている。

またディズニーの副社長で、ディズニー・インタラクティブ・スタジオの代表者であるグラハム・ホッパーは宮本を、「ビデオゲーム産業において世界規模で何度も成功した一握りの人間であり、さらにそれが長期間に渡っている人物。おそらく彼と同じレベルで肩を並べられるクリエイターは存在していない」(訳文)とまで評価している。

狩野 永徳

日本美術史上最も有名な画人の一人

1543年生まれの1590年没。安土桃山時代の絵師。
狩野派(室町時代から江戸時代まで日本画壇の中心にあった画派)の代表的な画人であり、日本美術史上もっとも著名な画人の1人である。

現存する代表作に『唐獅子図屏風』、『洛中洛外図屏風』、『聚光院障壁画』などがある。

狩野派の棟梁として織田信長、豊臣秀吉という天下人に仕え安土城、聚楽第、大坂城などの障壁画を制作した。
永徳が力を振るったこれらの代表的な事績は建物とともに滅びてしまったものが多く、真筆とされる現存作品は比較的少ない。
永徳といえば『唐獅子図』や『檜図』のような雄大なスケールの豪快な作品(大画)がよく知られるが、細部を緻密に描写した「細画」もよくしたとされる(『本朝画史』)。
現存する代表作の1つである上杉本『洛中洛外図』は、彼が細密描写に秀でていたことを示している。

狩野派

日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団。
狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである。

一休宗純

「一休さん」のモデルとなった人物

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。
説話の「一休さん」のモデルとなった人物。後小松天皇のご落胤だと言われている。

早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。
1415年には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。

「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。
1428年、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったと言われている。

1474年、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。
寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。

1481年、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去。享年88。

逸話など

木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。


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