源義経

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源 義経

民衆に愛された悲劇のヒーロー

平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義経である。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。

幼少時代

清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として生まれ、牛若丸と名付けられる。父は1159年の平治の乱で謀反人となり敗死する。その罪が子供である牛若丸に及ばない為、母・常盤御前は公家の一条家に再嫁し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗った。やがて遮那王は僧になる事を拒否して鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下った。源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。

治承・寿永の乱

木曽の義仲との対立

1180年に兄・源頼朝が伊豆国で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信・忠信兄弟等およそ数十騎が同行した。頼朝は、義経ともう一人の弟の源範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。1183年、木曾義仲が平氏を都落ちに追い込み入京する。後白河法皇は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とするなど義仲を低く評価し、頼朝の上洛に期待をかけていた。その後、木曽義仲が後白河院と対立し、後白河院を幽閉すると、それを討つべく伊勢国付近で兵を募る。この時、義経の郎党である伊勢義盛が義経に従ったと言われている。1184年、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られた。

平氏との対決

一ノ谷の戦い

この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。

屋島の戦い

その後、義経は京の治安維持に当たっていたが、西国に平氏討伐の為出陣していた範頼の遠征軍が兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞していることを知り、後白河院に西国出陣を申し出てその許可を得た。新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、讃岐国の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲し、火を使って大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた。

壇ノ浦の戦い

範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした。

頼朝との対立

平氏を滅ぼした後、義経は兄・頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。 このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)の満福寺に義経は留め置かれた。頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状である。

頼朝の怒りを買った原因

義経の人気と功績の大きさや法王からの信用の高さから、義経が頼朝の驚異であったと言われているが、以下のようなことが「吾妻鏡」に記されている。

  • ・許可なく官位を受けたこと
  • ・平氏追討にあたって軍監の梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと
  • ・義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪ったこと
  • ・義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪ったこと

などが言われているが、主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させたことも大きい。また、朝廷との取引材料と成り得た宝剣(草薙剣)を紛失した事は頼朝の戦後構想を破壊するものであった。極めつけは、平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平氏の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きに頼朝と義経の対立を決定的なものにした。結局、義経は鎌倉へ入る事を許されず、頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。頼朝は、義経に義仲に従った叔父・源行家追討を要請したが、義経は断った。

謀反

すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人・土佐坊昌俊を京へ送ったが義経がこれを撃退した。義経は頼朝打倒の旗をあげた。後白河法皇に再び奏上して、頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。義経は、九州で体制を立て直そうとするが失敗し、吉野に身を隠した。ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。その後京都に身を隠すが、叔父・行家が打ち取られ、各地に潜伏していた義経の郎党達(佐藤忠信、伊勢義盛等)も次々と発見され殺害された。京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。

最期

藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、43日間かけて鎌倉に送られた。泰衡は、義経と通じていたとして、弟の藤原忠衡を殺害したが、結局、直後の奥州征伐で、源頼朝によって滅亡した。伝承ではその後、首は藤沢に葬られ白旗神社に祀られたとされ、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられる。

その他

追いつめられた義経が平氏や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、静かに都を去った。『玉葉』の記主である九条兼実は頼朝派の人間であったが、義経の平穏な京都退去に対し「院中已下諸家悉く以て安穏なり。義経の所行、実に以て義士と謂ふ可きか。洛中の尊卑随喜せざるはなし(都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである)」と褒め称えている。

伝説

優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。 義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条大橋での出会い、陰陽師・鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。

義経生存説

後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説である。またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。これに基づき、中川郡の本別町には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。

ジンギスカン説

この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする説。この説は、小谷部全一郎が1924年に出版した『成吉思汗ハ源義經也』が判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなり、日本中に広まった。学会などでは徹底的に否定され、信じている人はほとんどいないが、有名な話である。


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