亀岡市

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小京都と呼ばれる町。

明智光秀が築いた城下町

旧丹波国の中では人口は最多であり、旧丹波国内の中心都市であった。戦国時代末期に明智光秀が丹波亀山城と城下町を築いたことが近代亀岡の礎となった。1869年、三重県亀山市と混同するため、亀山から亀岡へと改称される。1871年、廃藩置県で亀岡県となり、同年に京都府所属となる。

地理

亀岡市は、亀岡盆地及び周辺山地を中心に位置している。亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主命が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓して、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」の名前にちなみ保津川・保津峡と名付けたという伝説も残っており、出雲大神宮(千歳町)の祭神となっている。

歴史

古墳が多くみられることから、大豪族がいた地域と見られている。日本書紀には、6世紀の初め、皇位継承者の途絶えた朝廷が、天皇の血筋にあった倭彦王を迎えようとしたと記されている。丹波の桑田郡、つまり現在の亀岡にいた倭彦王は、迎えの兵に驚いて逃亡したため、その後、朝廷は、越前から継体天皇を迎えたとされている。京都との国境の大枝には酒呑童子の鬼がいたと言われ、源頼光によって討伐されたという伝説がある。この伝説のためか、湯の花温泉入り口には鬼の立像がある。

新宗教「大本」

1919年、新宗教「大本」の指導者が丹波亀山城を購入、整備を開始した。急成長する大本に恐怖した大日本帝国政府は1935年12月の第二次大本事件で徹底的に弾圧、翌年5月に全施設を破壊・焼却し、町には1か月に渡って大量の塵や灰が降ったという。教団の土地は城跡を含め亀岡町が格安値で購入するも、太平洋戦争の敗戦により大本へ返還した[10]。現在も宗教法人大本本部が亀山城跡に置かれている。

映画の街

京都市に隣接している立地条件から時代劇を中心としたロケーション撮影が市内各地で行われている。また、かつては日本電波映画の日本電波映画第二撮影所があった。このように、映画との関わりが深い街であるが、市内には映画館がない。

保津川下り

「川下り」というのは、保津川の水流を利用して下流にある京都・大阪に物資を輸送することにはじまった言葉。保津川峡谷の自然美は四季を通じてすばらしく、巨岩をはじめ、囲繞する山々と、しぶきをあげて落流する水、神秘をたたえた鏡のような渕など、変化に富んだ景観を見れる川下りは、世界的に有名。亀岡から嵯峨まで16kmに及ぶ保津川下りは、1895年頃に始まり観光の目玉である。

世界でも有名

1920年にはルーマニア皇太子、1922年に英国皇太子、1929年に英国グロスタニ公ご一行など国賓として招かれた諸外国の王族、戦後はアレキサンドラ内親王殿下をはじめ、ランドル駐日大使のの御一行や1965年にマーガレット内親王殿下、スノードン郷ご一行がお楽しみになっています。国内では、1926年には昭和天皇、秩父宮妃殿下、1983年に常陸宮妃殿下と皇族の方々もお下りになっています。東郷平八郎氏など、様々な著名人も訪れています。

見どころ

明智越え

亀岡からの愛宕山への登山道。名前は、本能寺の変直前に明智光秀が愛宕参詣したことに由来する。


明智戻り岩

能勢方面へ向かう法貴峠の旧道には、屏風岩などの名がつけられた岩があります。光秀が丹波平定に向かう途中、これらの巨岩に行く手をさえぎられ引き返し、「明智戻り岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。


亀山城址

光秀が1577年ごろに築城した亀山城は、明治維新の後廃城令により解体されましたが、石垣などが修復されています。


音羽渓谷

半国山ハイキング・赤熊コースの途中にある渓谷。大小さまざまな滝が集まる景色は季節を通じて楽しめます。6月から7月は水量が多くなお美しいと評判。


ドゥリムトン村

亀岡の山奥に突然あらわれる2ヘクタールにも及ぶイギリス村。風景やアンティーク、食事などで本格的なイギリスの雰囲気が楽しめる。


ききょうの里

光秀公の首塚がまつられている谷性寺の門前で開かれる観光ききょう園。約5万株の桔梗が大切に育てられていている。


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