坂本龍馬暗殺
近江屋事件
1867年12月10日に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件。実行犯は二人だったと言われている。
刺客の一人が「こなくそ!」という言葉を使ったことから、伊予出身だったと言われている。
江戸幕府京都見廻組によるものという説が有力である。
しかし、1870年に京都見回り組の隊士だった今井信郎が供述するまで実行犯は新撰組など色々な噂がたった。また、今井信郎の証言は売名行為で真犯人は別にいるなど数々の陰謀論が唱えられている。
龍馬暗殺は幕末最大のミステリーといわれている。
新選組犯行説
新選組の、もしくは新選組の隊士の犯行とする説。
いくつかの証言や物証を根拠としており、事件当初は有力な説だった。事件当時の現場に残された鞘などの物証や、3日後に暗殺された伊東甲子太郎の同志(御陵衛士)らの証言から新選組の原田左之助によるものと推定されたが不明。
北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると斎藤一ではなかろうか、と推定する説もある。事件後、11月26日に幕府から取調べを受けた新選組局長の近藤勇は関与を否定している。
京都見廻組説
最有力説
1870年、見廻組隊士だった今井信郎が箱館戦争で降伏し、囚われていたところ、新選組隊士であった大石鍬次郎や横倉甚五郎らの、犯人は見廻組であるという供述により、今井も近江屋事件について取調べを受けた。その際今井は、坂本・中岡暗殺に関与したと自白し、裁判により禁固刑となった。今井は明治後期以降にも証言を行った他、大正時代には同じく元見廻組隊士の渡辺篤が証言を行っている。
ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、供述による斬った箇所と実際の傷の箇所の相違、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)がある。誰が見廻組へ指図したかについては、勝海舟は幕府上層部の指示であると推測している。
見廻組は京都守護職・松平容保(会津藩主)の支配下にあり手白木が記した書から、佐々木の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、松平容保の命で佐々木に実行させたという意見もある。
紀州藩士報復説
可能性が高い説
紀州藩、ないしは紀州藩士による報復行動だとする説。
海援隊隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光)らは、海援隊と紀州藩の間に起こり、海援隊側の勝利に終わった訴訟「いろは丸事件」に対する、紀州藩士の恨みによる犯行であると考えていた。そのため、紀州藩公用人の三浦休太郎(三浦安)が海援隊隊士らに襲撃される報復事件(天満屋事件)が発生した。
薩摩藩陰謀説
西郷隆盛、大久保利通らを中心とする薩摩藩内の武力倒幕派による陰謀だとする説。
実行犯は京都見回り組だけど、黒幕は薩摩藩だったという説もある。
幕府の武力討伐を主張していた薩摩藩は、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を申し出たその日、朝廷から倒幕の密勅を得た。龍馬ははじめこそ、薩摩、長州と手を結び、倒幕運動を進めてきたが、大政奉還のアイデアは龍馬が出したものであり、最後の最後には幕府は倒すものの徳川家は存続させる立場に転じた。
振り上げた拳を下ろすことなく、相手が消えてしまった薩摩藩にとって、龍馬は政敵となった。
しかし、龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎は、土佐脱藩後薩摩藩とともに働き、武力による倒幕を主張していた盟友である。その中岡を一緒に葬りさることがあろうか。
会津藩黒幕説
2002年にある密書が京都市内で見つかった。それには実行犯のひとり佐々木唯三郎の兄で会津藩重臣・手代木直右衛門が龍馬暗殺直後に、彦根藩重臣・石黒伝右衛門と会談しようとしたことが書かれていたという。
内容は、「ごく内密に相談したい事件があり、(石黒の)旅宿を訪ねたが出仕中で留守だった。ご苦労をかけて恐縮だが、京都・祇園で待っているので来てほしい」というもの。京都でこの頃、大きな事件といえば、龍馬暗殺ぐらい。相談の事件とは龍馬暗殺の件の可能性が高い。
外国陰謀説
武力倒幕により、薩長倒幕側に武器の売り込みを狙った企業体・ジャーディン・マセソン系のイギリス人・トーマス・ブレーク・グラバー、外交官・ハリー・パークス、アーネスト・サトウらにより仕組まれた陰謀であるとの説。いわゆる「フリーメイソン陰謀論」に属する。
中岡のとばっちり説
坂本龍馬と一緒に暗殺された中岡慎太郎は、当時坂本龍馬より有名で本当は中岡慎太郎の暗殺が目的で一緒にいた坂本龍馬は中岡慎太郎のとばっちりで殺されたという説。
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