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新撰組

壬生の狼と言われた武装集団

江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織。政治の中心だった京都に諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化していた。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保を就任させた。その配下で活動した準軍事的組織が新選組である。同様の組織に京都見廻組があった。ただし、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規組織であり、京都見廻組は幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であった。隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。1867年に幕臣に取り立てられ、翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従って戦い、敗戦に伴い散り散りになり、解散した。

壬生浪士組

壬生浪士(みぶろうし)あるいは精忠浪士(せいちゅうろうし)は、新選組の前身集団。1862年、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。1863年、集まった200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成した。京都で清河は浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚し、清河の計画を阻止するために江戸に戻った。これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張し、24人(17人とも言う)が京都に残り、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。京都の壬生に屯所を置き、新選組となる以前の壬生浪士たちは身なりの貧しさから、「みぼろ」(壬生浪=みぶろ・みぶろう)と一部の京の人たちに揶揄されていた。「壬生の狼」とも呼ばれた。

壬生浪士組から新撰組へ

大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。1863年9月に起こった会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏から賜ったという説と、松平容保から賜ったという2つの説がある。

局長

壬生浪士のとりまとめの責任者は始め殿内義雄(結城藩士)と家里次朗であったが、幕府の信用で筆頭になった為、派閥のようなものは持っていなかった。筆頭格であった根岸友山、近藤勇、芹沢鴨は既に派閥を持っている状態であった。その後主導権争いで、殿内は近藤一派に暗殺され、根岸一派は脱退し、家里は孤立し出奔したが芹沢に切腹させられた。壬生浪士組は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。のちに芹沢鴨・近藤勇・新見錦(水戸藩浪士)が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。その後、新見は副長に降格(後、切腹)となり、近藤一派が芹沢鴨を暗殺し、近藤勇を頂点とする組織となる。

飛躍

1864年、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛。新選組の名は天下に轟いた。その後、禁門の変の鎮圧に参加。池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。新選組は200名を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。1867年、伊東らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年、新選組は幕臣に取り立てられる。同年末、御陵衛士を襲撃し、伊東らを暗殺する(油小路事件)。

戊辰戦争

1867年に将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った。新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。その後、幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州勝沼の戦いに出動するが敗れる。近藤、土方らは再起をかけ、流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核の悪化により江戸にて死亡。新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦い等で活躍する。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。

主な隊士

近藤勇

新選組局長。武蔵国(東京都調布市)生まれ。天然理心流3世近藤周助に望まれ4世を襲名し、近藤勇と称した。身分が低かったが、清河八郎らが作った浪士組では一時三番組の小頭を務めた。その後、壬生浪士隊では局長の一人となり、筆頭局長の芹沢鴨を粛清し、新撰組は近藤勇を頂点とした組織となる。池田屋騒動で勇名を馳せ、その後、新撰組隊士105人と共に幕府の召し抱えとなる。徳川幕府の大政奉還後、鳥羽・伏見の戦を経て,江戸に引き揚げ後,甲陽鎮撫隊を組織するも甲州勝沼で敗走。下総流山(千葉県)で官軍に投降。1868年,板橋において斬首。

土方歳三

幕末維新期の新選組副長,のちに箱館五稜郭政権の陸軍奉行並。。武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)土方義諄の4男。1863年の上洛浪士組に参じ,近藤勇,沖田総司らと共に京都に残留し新選組副長となる。土方は法の番人的存在で局中法度を徹底的に貫き,山南敬助,河合耆三郎らを切腹に追い込むなど内部粛清に猛威を振るった。1868年の鳥羽・伏見の戦以後,新選組の戦闘指揮をとる。宇都宮,会津若松と転戦したのち榎本武揚らと五稜郭に渡り,翌年回天艦に搭乗して宮古湾の海戦に参じる。その後,箱館戦争の雌雄を決する激戦において壮烈な戦死を遂げた。

沖田総司

幕末維新期,白皙の天才的美剣士とうたわれる新選組の一番隊隊長。近藤勇の天然理心流試衛館の塾頭を務め,近藤,土方歳三らと上洛,新選組に加盟。池田屋の斬り込みで喀血昏倒。鳥羽・伏見の戦には労咳のため参加せず,江戸引き揚げ後は,神田和泉橋の医学所や今戸八幡の松本良順宅で療養。千駄ケ谷池尻橋の植木屋平五郎宅の納屋で死んだといわれる。

斎藤一

1844年に東京で生まれたとされる。幕末期に新選組で副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務める。沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったといわれる。その剣の冴えは「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と称された。剣の流派は「無外流」と言われる。剣の腕が立った為剣術道場で師範代を努めていたが、1863年、近藤勇ら浪士組が上洛して壬生浪士組を発足させるとこれに参加。入隊後すぐ幹部になり、三番隊の組長となる。池田屋事件、御陵衛士でのスパイ活動、天満屋事件での逸話が知られる。1868年、新撰組隊士として鳥羽・伏見で新政府軍と戦うが敗れて江戸へ敗走。新撰組隊士達と甲陽鎮撫隊を結成して甲州勝沼で新政府軍と戦うが敗北。そのまま会津藩まで逃れ、合流した土方歳三と共に新政府軍を迎え撃つがここでも敗北。土方は仙台に向かったが、斎藤は会津に愛着を持ったのか留まり、ここで新選組を袂を分かった。会津藩の降伏以後は、下北半島・斗南藩への集団移住まで会津藩士達と行動を共にする。鳥羽伏見の戦いの後も生き残り、新政府で警察庁に就職後、西南戦争に出征、新聞に掲載される手柄を立てている。1891年、警視庁を退職し、以後は博物館や女子校にて勤務。1915年、満71歳で死去。死因は胃潰瘍。死の間際、家族の手によって座布団を敷いた床の間に自分を運ばせ、結跏趺坐のまま息を引き取ったという。

山南敬助

1833年、陸奥国仙台生まれ。江戸に赴き小野派一刀流や北辰一刀流を学ぶ。近藤勇との勝負に敗れ、弟子入りする。1863年に浪士組の一員として近藤らと上京。京都に残り壬生浪士組に加わった。芹沢鴨暗殺にも参加している。新撰組では、副長を務める。伊東甲子太郎と北辰一刀流で仲が良い為に、近藤勇に嫌疑を受け脱走。沖田総司が大津まで追いかけて連れ戻し、法令に背いたために切腹。享年33。新撰組内で人望が厚く、沖田は手下を連れず一人で追いかけ、大津ですぐに見つけている。また、戻った後、切腹させたくない隊士により、もう一度脱走の機会が与えられたが、既に切腹を覚悟していたため受け付けなかったとされている。

永倉新八

二番隊隊長を務めた。沖田総司、近藤勇、土方歳三といった新撰組同士が非業の死を遂げる中で明治維新後も生存し、かつその軌跡が明らかになっている稀少な人物で、新撰組の名誉回復に大役を買った。新撰組最強の剣士の呼び声も高い永倉新八は、池田屋事件で4名を討ち取る大活躍でなの実力を示す。大政奉還後も鳥羽・伏見の戦い、新撰組が甲陽鎮撫隊として出陣した甲府の戦いにも参加した。しかし、もともと近藤と仲の悪かった永倉は、近藤との対立が原因で新撰組と袂を分かつ。同じように袂を分かった原田佐之助と共に靖共隊を結成し、副長に就任した。頼りにしていた会津藩の降伏で、一か月ほど潜伏していたが松前藩邸に自首した。家老の計らいで帰参を許された永倉は、新撰組の記録を後世に残すために、新撰組の活躍記録というべき『浪士文久報国記事』『新撰組顛末記』を書いている。

伊東甲子太郎

1835年、常陸国志筑藩士・鈴木専右衛門の家に生まれる。1859年頃江戸に出て北辰一刀流の伊東精一に学びその没後その娘と結婚し伊東に改姓。道場を継いだ。1864年、新選組に入隊。甲子の年にちなんで甲子太郎と改名した。1865年、参謀に就任。伊東は新撰組を手土産に薩長に取り入る胸勘定が入隊前からあったとされる。山南啓介を利用しようとするが、感情の起伏の激しい山南に自分の野望が露見されるのを恐れて断念し、突き放す。孤立した山南は自害。伊東は、次第に討幕の思いを高めて行き、近藤を騙して、薩摩を調べると言う名目で、新撰組の分離に成功する。伊東の入隊時から動向を調べていた土方歳三は、伊東一派にスパイとして斎藤一を送りこんでいた。伊東は薩摩と内通していたが、新撰組に薩摩を調べているという状態を保っていた。大政奉還後、今後のカギを握る薩摩に取り入っていた伊東は、討幕を進める為に新撰組の武力吸収を考案し、近藤勇暗殺を計画する。しかしその計画をスパイであった斎藤一よりもたらされた新撰組は伊東を暗殺する。享年33。

原田左之助

新選組隊士(十番隊組長)。種田流槍術(または宝蔵院流)の免許皆伝を受け、槍の名手として知られた。江戸試衛館の近藤勇につき従い浪士組に参加して上洛。新選組結成後は殿軍である十番組長となる。主だった新選組の戦闘に関わり活躍した(芹沢鴨一派の粛清、長州の間者・楠小十郎斬殺、大阪西町奉行与力・内山彦次郎暗殺、池田屋事件、禁門の変、三条制札事件、油小路事件など)。鳥羽・伏見の戦いや甲陽鎮撫隊まで新選組として戦うが、その後、近藤らと袂を分かち永倉新八と共に靖兵隊を結成する。ところが、江戸を離れてから用を思い出したと靖兵隊を離れて江戸に戻って彰義隊に加入した。しかし、上野戦争の際に負傷し、その傷がもとで本所の神保山城守邸で死亡したとされる。享年29。

局中法度

烏合の衆である浪人集団を統率する為、俗に「局中法度」(局中法度書)といわれる隊規を定めた。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清された。5か条として知られているが、同時代史料にはこれを全て記録した物は現在までのところ発見されていない。鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名にのぼる。内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で、その他は殆どが切腹や暗殺等の粛清絡みのものであった。

給料

。『新撰組永倉新八』によれば、局長50両、副長40両、副長助勤30両、平隊士10両の月給であったとされるが、実際はそれ以下であったと考えられる。幕末の1両は3〜8万円ぐらいの価値だったと言われている。

入隊資格

年齢や身分(士農工商)による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた。実技試験もなかった。入隊後一定期間は「仮同志」という試用期間となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、この時に臆病なふるまいをした者は追放されたという。


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