偉人伝
明治時代人気ナンバーワンだった日本人
南北朝時代の武将。大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とする。幼名多聞丸。鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから、明治以降「大楠公」(だいなんこう)と称されています。
鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞の余地はく、幕府の権威も失墜し、執権の北条高時は、政治への興味をなくし遊興三昧の日々を送っていた。
1331年、みかねた後醍醐天皇は、幕府打倒を目指して京都で挙兵します。しかし、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者は少なかった。この時駆けつけた少ない武将の中の一人が楠木正成でした。これに対し、幕府は数万の討伐軍を差し向けます。
赤坂城の戦い
討幕軍は笠置山陥落、吉野も陥落し、楠木正成の下赤坂城のみ残ります。
楠木正成は赤坂城でおよそ500余りの兵力で、幕府軍数万(「太平記」では20万)の討伐軍と戦います。
幕府側は初戦だけで700名の兵を失い、持久戦に持ち込みます。20日で食糧は底を尽き、後醍醐天皇が捕えられます。楠木正成は城に火を放ち自害したと見せかけて脱出します。その後、後醍醐天皇は隠岐島へ配流され、討幕側の主力の日野俊基や北畠具行、日野資朝らは斬罪されます。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えました。
再挙兵
翌1332年、楠木正成は再挙兵します。河内や和泉の守護(幕府の軍事機関)を次々攻略し、摂津の四天王寺を占拠します。これに対し、幕府側は紀清両党と呼ばれる幕府最強の宇都宮公綱を差し向けます。
楠木正成軍は4倍の兵力があったと言われていますが、坂東一の弓取りと言われた宇都宮氏の武勇を警戒して持久戦に持ち込みます。宇都宮公綱も楠木正成の武略を警戒して直接対決することはなく、引き分けに終わっています。
翌1333年2月、楠木正成を打つべく8万騎(「太平記」では100万騎とされている)の大征伐軍を編成します。これに対し、楠木正成は1,000人の兵力で千早城で迎え撃ちます。
地元の土豪などの協力もあり、幕府側の兵糧を断つことに成功します。兵糧の無くなった幕府軍から数百単位で撤退する部隊が続出し、90日に渡って幕府軍の大軍を相手に戦い抜きます。
ちなみに、赤坂城、千早城の合戦の後日、楠木正成は、敵・味方の戦没者を弔うためのに、供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行ないました。この供養塔で、彼は“敵”という文字を使わなかった。代わりに「寄手(攻撃側)」という文字を使っています。そして、寄手塚の塚を、味方の塚よりひとまわり大きくしています。この供養塔は、現在も千早赤阪村営の墓地に残っています。
討幕の機運高まる
幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいる、との報は全国に伝わり、各地の倒幕の機運を触発することとなります。各地で討幕軍が挙兵します。中でも、赤松則村(円心)の勢いはすごく後醍醐天皇は討幕の綸旨を天下へ発することになります。
ついには幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞などの源氏直流の大物豪族たちが公然と反旗を翻し出します。足利尊氏は、京都の幕軍を倒し、新田義貞は、鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取ってしまった。
楠木正成が庶民の力で千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させることになりました。
建武の新政
後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタートします。楠木正成は、土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命されました。また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課した。
武士の反発
朝廷の力を回復する為とはいえ、こうした性急な改革は諸国の武士の反発を呼び、1335年11月、足利尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵します。
これを楠木正成ら天皇方の武将が迎え撃ち、足利尊氏は敗退します。
しかし、武士、民衆の支持を得た足利尊氏は九州で大軍を得て北上します。
この頃楠木正成は、社会の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にあること、力を持った武士階級を統制して社会を静めるにはもう公家政治では無理であること、そして武士を統制できる武家政治の中心となれるのは足利尊氏以外にいないことなどを考えていたようです。
楠木正成は、後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言したが容認されず、次善の策として進言した、京都から朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つ必勝の策も却下されてしまいます。
湊川の戦い
絶望的な状況下、新田義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、湊川(兵庫県神戸市)で足利軍と戦います。
民衆の支持を失った天皇側の楠木軍は700騎、足利尊氏軍は3万5千騎であったといいいます。海岸に陣をひいた新田軍は、海と陸から挟まれ、あっという間に総崩れとなります。
楠木正成の能力を高く買う足利尊氏は楠木正成を助命しようと再三降伏勧告を出します。それに従わない楠木正成に足利尊氏は総攻撃をし楠木正成は敗れます。
楠木正成の最後
楠木正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃します。正成は弟・正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺した。享年42歳。
このとき楠木正成が、弟正季ら、生き残った一族郎党と誓い合った言葉としていまに伝えられているのが「七生報国」(しちしょうほうこく)です。
「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」という意味です。
正成の首は、一時京都六条河原に晒されたけれど、死を惜しんだ足利尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられています。
足利尊氏側の記録(『梅松論』)には、敵将・正成の死が次のように書かれています。
「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」
足利尊氏没後、室町幕府は、北朝の正当性を強調するために、足利軍と戦った楠木正成を『逆賊』として扱った。楠木正成は、死後300年近くも、朝敵の汚名を着せられたままとなった。
楠木正成の英雄化
江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、楠木正成は忠臣として見直されます。
水戸黄門で有名な、水戸光圀が1692年に神戸市の湊川神社に楠木正成の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立し、一気に崇敬されるようになっていきます。
明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり民衆に大人気となっていきました。楠木正成は、大東亜戦争を戦い抜いた若き日本軍の将兵に「皇国の最大の英雄」と慕われ、「七生報国」は、「忠君愛国」「滅私奉公」とともに、旧日本軍日本人の精神として受け継がれました。
桜井の別れ
桜井の別れ(さくらいのわかれ)は、西国街道の桜井の駅(櫻井の驛)で楠木正成・正行父子が訣別する逸話。
桜井の駅で別れた後、正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなった。
「駅」(驛)とは宿駅のことで、摂津国島上郡桜井村(現在の大阪府三島郡島本町桜井)に置かれた大原駅と言われている。
『太平記』によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通り。
楠木正成は敗北が濃厚な湊川の戦場に死を覚悟して赴くことになった。その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。
なお、訣別に際して桜井村の坂口八幡宮に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。
世界的な大数学者
岡潔先生は、明治31年のお生まれです。
文化勲章授章、勲一等瑞宝章授章、従三位授章をお受けになられ、昭和53年、76歳で永眠されました。
主な研究は、多変数解析函数に関する研究です。
高等学校を卒業後、京大学理学部に入り、そのまま京大の数学科の講師に就任しています。
そしてなんと28歳で京大の助教授に昇任、31歳で広島文理科大学助教授になりました。
広島文理大学の助教授時代のことです。
岡潔博士は3年間フランスのパリ大学のポアンカレ研究所に留学し、生涯の研究課題を「多変数函数論」に定めました。
岡潔博士の「多変数函数論」に関する論文は、博士の生涯に10回書かれ、このひとつひとつが珠玉の傑作論文として、世界的に高い評価を受けたのです。
だから世界的数学者のジーゲルや、数学者集団のブルバキの主要メンバーであったヴェイユ、カルタンといった、世界を代表する数学者らが、後年わざわざ奈良まで岡潔を訪ねたりもしています。
さらには、湯川秀樹、朝永振一郎といった大学者たちも、この岡潔先生の講義を受け、あまりの素晴らしさに、その時間はまるで「新鮮な空気のただようような時間だった」と回想しています。
欧米の数学界では、それがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」というのは数学者集団の名称だと思われていたそうです。
日本の一万円札の人
日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を元に明治六大教育家として列される。1984年から日本銀行券一万円紙幣表面の肖像に採用されている。
適塾入校
1855年に蘭学者・緒方洪庵の適塾に入校する。1856年に兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。
1857年には最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。
江戸に出る
幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、1858年に福澤にも中津藩から江戸出府を命じられる。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。
1859年日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは専ら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した福澤は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。緒方洪庵もこれからは英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが鎖国の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった。
渡米
1859年に日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛艦の咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、アメリカへ立つ。福沢諭吉は、蒸気船を初めて目にしてからたった7年で、咸臨丸で日本人だけの手によって太平洋を横断出来たことは世界に誇るべき名誉であると述べている。
福澤は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。帰国し、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語にカタカナで読みを付け、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版する。この書の中で福澤は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「?」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。また、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。
渡欧
1862年竹内保徳を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、福澤も翻訳方としてこれに同行することとなった。
途上、立ち寄った香港で植民地主義・帝国主義を目の当たりにし、イギリス人が中国人を犬猫同然に扱うことに強い衝撃を受ける。ヨーロッパで病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などを見て、日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。
1863年に帰国後、『西洋事情』などの著書を通じて啓蒙活動を開始。『西洋事情』は「理化学・器械学」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵の制度や設備について言及してある。福沢諭吉が帰国して次の日に、英国公使館焼き討ち事件、孝明天皇の賀茂両社への攘夷祈願、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つようになった。その後、薩英戦争が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。
明治維新
1867年には幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米した。紀州藩や仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込み、帰国後、『西洋旅案内』を書き上げた。
翌年には帯刀をやめて平民となった。1868年には蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。明治新政府からの出仕の要請があったが、これを断り、九鬼隆一や白根専一らを新政府の文部官吏として送り込む一方、自らは慶應義塾の運営と啓蒙活動に専念することとした。
廃藩置県を歓迎し、「分権論』には、これを成立させた西郷隆盛への感謝と共に、地方分権が士族の不満を救うと論じ、続く『丁丑公論』では政府が掌を返して西南戦争で西郷を追い込むのはおかしいと主張した(『丁丑公論』は内容が過激だった為、発表は福澤没後となった)。
その後、木戸孝允と出会い、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり。」の声があるほど、明治初期までは福澤の思い描く国家の構想が反映されるかのように見えた。
薩長派閥との対立
薩長派閥と対立をしていた福沢諭吉は、薩長藩閥では無い大隈重信に近づき、統計院(後の内閣統計局)を設立させる。統計院にはある秘密があり、設立直後から「憲法の調査立案」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに、矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。
大隈重信が提出していた早期国会開設論の背後に福澤の影があると、放った密偵によって察知した伊藤博文は、対処をプロシア流憲法の草案者で、明治政府一番の能吏・井上毅に一任することになる。丁度同じ時期に福沢派が北海道開拓使勧誘物払下げ問題を糾弾したことで、薩摩閥は怒り、岩倉具視・九鬼隆一らも加わって大隈一派を政府内から一掃する明治十四年の政変が起こる事となった。その際、福沢諭吉は伊藤博文と井上馨に手紙を書いたが伊藤から返事はなかった。
その時に明治十四年の政変の影響により、政府主導で設立する予定だった『時事新報』も自らの手で創刊することになったが、1882年3月1日に創刊されるや否や1,500部全てを売る結果となり、この後、『時事新報』は一定の成功を収めることとなった。
朝鮮改革運動支援
福澤は、朝鮮人改革者・金玉均との出会いをきっかけにして、朝鮮の改革運動にも加担することになる。福澤諭吉が日本の文明開化の立役者であるということは朝鮮でも有名で、1881年3月6日、金玉均は福澤と面会を果たし、朝鮮独立への協力を依頼した。
1882年に壬午事変が勃発すると、福澤は横浜正金銀行から17万円の借款を得、朝鮮に借款した。また、井上馨から朝鮮国王の委任状があれば、さらに300万円の借款を供与するという提案を貰う。この時、金を支援するべく朝鮮に人を派遣している。
『漢城旬報』という朝鮮最初の新聞を発行する。井上馨は福澤の助言に従い、朝鮮式かな混じり文を考案するべく朝鮮の文法学者と共に李朝第四代の王・世宗によって公布された『訓民正音』の研究を開始。国王・高宗の内諾を取り、新字体で紙面を構成し始める。これが今日の朝鮮文体「ハングル」である。
当時、日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。
しかし、1884年に朝鮮で甲申事変が起こるも失敗。それを受け、福澤諭吉は『時事新報』に「脱亜論」を発表し、その5か月後には社説「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」を発表する。内容は、「人民の生命も財産も独立国民の誇りも守ってやれないような国は、むしろ滅びてしまった方が人民のためだ。」という強烈なものだった。その後、金玉均は福澤邸にしばらく潜伏していたが、日本郵船の西京丸で上海へ向かう途中、暗殺されることとなった。福沢諭吉は、上海で暗殺された金の供養を真浄寺で行っている。
教育支援
政府に反発する者・自由民権運動の火付け役として伊藤博文から睨まれていた福澤の立場は益々厳しいものとなったが「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、後任に任せることにした。この頃から平民の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。
私立の総合大学が慶應義塾のみで、もっと多くの私立学校が必要だと考え、門下を大阪商業講習所や商法講習所で活躍させる一方、専修学校や東京専門学校、英吉利法律学校の設立を支援し、開校式にも出席した。しかし東京専門学校などはあからさまに大隈重信嫌いの山縣有朋等の薩長参議が潰そうとしてきた為、設立は困難を極め、開校式に大隈が出席せず、「学問の独立」という取って付けた宣言を小野梓が発表するに留まった。
1892年には、長与専斎の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。丁度帝国大学の構想が持ち上がっている頃だったが、慶應義塾に大学部を設置し小泉信吉を招聘して、一貫教育の体制を確立した。
アジア近隣諸国に対して
福澤は、アジアの「改革勢力」の支援を通じて近隣諸国の「近代化」に力を注いでいる。朝鮮からの留学生も1881年6月から慶應義塾に受け入れている。
晩年
晩年は旅行や著作に多くの時間を費やし、自叙伝『福翁自伝』を記し始め、『時事新報』掲載の社説には明治政府の国家社会主義的な西洋化・近代化への批判、キリスト教を始めとした宗教批評ど多岐に及んだ。
功績
福沢諭吉の最大の功績は、『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想・儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った(脱亜思想)ことである。また、中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。他には、会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した人物でもある。借方貸方という語は福澤の訳によるもの。近代保険制度、男女同等論など多岐にわたる。
茶聖と呼ばれた男
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。
若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われた。
信長の家臣は茶の湯に励み、ステータスとなる茶道具を欲しがった。彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ること。必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。
本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えた。秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心だった。秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる、細川三斎(ガラシアの夫)、織田有楽斎(信長の弟)、高山右近(キリシタン)、“ひょうげもの”古田織部など優れた高弟が生まれた。
1587年(65歳)、秀吉は九州を平定。実質的に天下統一を果たした祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を北野天満宮で開催する。公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加が許されたというから、まさに国民的行事。秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、利休が総合演出を担当した。
豊臣秀吉との対立
秀吉は貿易の利益を独占するために堺市に対し税を重くし、堺市の独立の象徴だった豪を埋めてしまう。堺市の権益を守ろうとする利休との関係が悪化して行く。
その後、利休の弟子である山上宗二が秀吉に口の利き方が悪いと処刑されます。茶の湯に関してもド派手な「黄金の茶室」を好む秀吉に対し、利休は素朴な茶室を好む為、対立が激しくなっていきます。
そして1591年1月13日の茶会で派手好きの秀吉が黒を嫌うことを知りながら「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。 9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。
秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。
利休は突然秀吉から「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受けます。利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないというのだ。
秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリ分からせようと思っていた。秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(おね)、或いは母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。だが、利休はこれを断った。利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達した。
2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。26日、秀吉は気が治まらず、利休を堺から京都に呼び戻す。 そして28日。京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。利休の首は磔にされた木像の下に晒された。
後年、利休の孫・千宗旦が家を再興する。そして宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、三男・宗佐が『表千家不審庵』を、四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こした。利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。
わび茶(草庵の茶)の完成
利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させます。利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにある。
「露地」も利休の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。利休は主人と客がお互いを尊敬しあい、おごらない気持ちで接しするという「和敬静寂(わけいせいじゃく)」の考えをもっていたため、織田信長や豊臣秀吉とも対等の立場を守ろうとした。
茶室
日本式の茶道において、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる施設である。「茶席」「囲い」あるいは「数寄屋」と呼ぶこともある。
利休は2畳や1畳半と言った従来の4畳半に比べて狭い空間を作り出した。こうした狭小な空間は、利休の志向した「直心の交」(じきしんのまじわり)、すなわち、亭主と客とが直に心を通い合わせる空間をめざしたものであった。
体をかがめなければ入室できない躙口(にじりぐち)、丸太を用いた柱、土壁、壁の一部を塗り残して壁下地の木舞(格子状に組んだ竹)を見せた下地窓などが、草庵風の茶室の代表的な要素である。
特に躙口は、天下人となった秀吉であっても頭を下げて入らなければいけない作りである。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。
大東亜戦争終結を引き受けた男
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。第42代内閣総理大臣に就任し、陸軍の反対を押し切って大東亜戦争を終戦に導いた。
日清戦争
海軍大尉として、50トンのトイレもない小さな水雷艇の艇長として参加。魚雷艇で清国艦船に肉薄攻撃し、敵艦隊を沈めるという大戦果を上げます。この頃から「鬼貫」と呼ばれるようになりました。
日露戦争
日露戦争では、駆逐隊司令として戦った。持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦スワロフに魚雷を命中させるなどの大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に貢献した。
海軍大将から軍令部長
その後ドイツに駐在し、1914年に海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。1923年に海軍大将となり、1924年に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。
侍従長
1929年に昭和天皇と貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任します。これは海軍軍令部長から30ランクぐらい下がる降格人事です。侍従長とは、天皇陛下に側近奉仕する文官のことです。
軍人である鈴木貫太郎が侍従長を断らなかったのは「格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った」と人々に思われたくなかったからといわれる。昭和天皇の信任が厚かった一方で、国家主義者・青年将校たちからは「君側の奸」と見なされ命を狙われることになった。
二・二六事件
1936年2月26日に二・二六事件が発生した。
事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。
午前5時。鈴木の官邸に、安藤輝三大尉が指揮する兵204名が来襲した。鈴木は寝床を跳ね起きて、そこへ行って見た。鉄砲を持った七、八人の兵隊と一人の指揮者が入って来た。「君らは何だ」というと、「済みませんけれども、閣下の生命を頂戴に参りました」という。鈴太は「よしッ、それなら少し待て」といって、引返して奥へ入った。奥であちこち探したが武器が見つからなかったので、ぐすぐすしていて、あいつ卑怯にも裏から逃げたと思われては、一生の名折れだ。「よしッ」と素手で出て来て、「君らの見る通り、オレは何も手に持って居らん。やるならやれ!」といって、立ったまま両手を拡げた。すると中隊長は中尉ぐらいだったが、「最敬札!」と号令して兵隊たちに鈴木に敬礼させた。そして続いて、「射て」と号令した。鈴木は、左脚付根に3発、左胸、左頭部に各1発の銃弾を撃ち込まれ、その場で昏倒した。
血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅でキチンと座ってご主人の最後を見届けていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。
安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。
反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。鈴木の意識はまだはっきりしており、「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという風説を生んだ。
その後病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。
安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。
総理就任
1945年4月(終戦4か月前)、枢密院議長に就任していた鈴木は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。会議のメンバーは元総理の6人と内大臣の木戸幸一と鈴木貫太郎の8人だった。その会議で総理に推されるも驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。
重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある。「軍人が政治に出る のは国を滅ぼす基なり」と考え、あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。
鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に「頼む」とまで言われそれ以上固辞しなかった。
皇太后節子(貞明皇后)は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し、「どうか陛下の親代わりになって」と語った。
就任当時から鈴木貫太郎は和平をするつもりだったと言われており、それをあらわすエピソードとして、6月8日の重臣会議後、「首相、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないという事に決まって居る」と内大臣が言ったという若槻元首相の証言が残っている。
非国会議員、江戸時代生まれという二つの点で総理大臣を務めた最後の人物となった。また満77歳2ヶ月での就任は2011年現在、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録である。
哀悼の意
4月12日、米国ルーズベルト前大統領死去。
鈴木貫太郎は、この報道に接すると、短波放送で次のメッセージを送った。
「私は深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります」。
同じ頃、ナチス・ドイツのヒトラーも敗北寸前だったのだけれど、彼は対照的にルーズベルトを罵った。
アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、英国BBCで「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題して声明を発表し、ニューヨークタイムズなどでも大きく報じられ、鈴木の行動は各国で賞賛された。
終戦工作
日本政府はソ連に米英との講和の仲介を働きかけていた。
ソ連とは日ソ中立条約を結んでいたことと、「日本軍の無条件降伏」を求めたポツダム宣言にソ連が署名していなかったことで、ソ連のスターリンに期待を寄せていた。
一方でスターリンは、3週間前のポツダム会談においてアメリカのトルーマン大統領に、日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた。
7月27日にポツダム宣言発表があり、8月6日の広島への原爆投下、9日のソ連参戦と長崎への原爆投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。
昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。
8月9日深夜から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り揉めていたが、昭和天皇の涙ながらの訴えで即時受諾案が決まった。
8月15日正午昭和天皇の朗読による終戦の詔勅がラジオで放送された。同日鈴木は天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職した。
終戦について
元海軍大将の山梨勝之進は戦後になって「(前略)終戦は鈴木将軍のあの貫禄があってこそ、押し切れたのです。あれがもし普通の文官の方があの立場にあったら、軍は収まらなかったろうと思う。「あんな臆病者の勇気のないものが戦をやめろと言っても、降参するものか」と言ってやめるものではない。いわゆる「鬼鈴木」と言われ、勇気と胆勇では、日本一看板づきの人がこうだからというので、その押しと貫禄で、陛下のご決定までいったと思われ、実に歴史始まっての第一人者であると思う。』と語っている。
不死身の男
鈴木は生涯に2度の暗殺未遂を経験しているが、幼い頃から何度も死にそうな目にあった。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かった。
たか婦人
お茶の水女子大学附属幼稚園の教諭を経て、昭和天皇の幼少時代の教育係をしていた。昭和天皇は「たかのことは、母のように思っている」と、語ったと言う。
エピソード1
1943年(終戦2年前)頃、以前校長を務めた海軍兵学校を訪ね、当時校長だった井上成美に「井上君、兵学校の教育の効果が現れるのは二十年後だよ、二十年後!」と大声で言ったという。終始戦争反対派で、戦後の為の教育をしている井上を後押しするためだけに江の島まで行ったという。
エピソード2
徹底抗戦派の陸軍の阿南 惟幾大将は、終戦が決まった8月14日の御前会議終了後、紙に包んだ葉巻の束を手に「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意はございませんことをご理解ください。この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参いたしました」と鈴木に挨拶にきた。
鈴木は「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。わが国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」と告げた。
阿南は静かにうなずいて「私も、そう思います」と言って辞去した。
鈴木は迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいた。その数時間後、阿南は割腹自決した。
阿南は鈴木の侍従長時代の侍従武官であり、そのときから鈴木の人柄に深く心酔していた。
阿南の思惑とは正反対の終戦の方に流れが進み始めた頃、陸士同期の安井藤治国務大臣に阿南は「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」と言ったという。
日本人初のノーベル文学賞
1968年にノーベル文学賞を日本人で初めて受賞した日本を代表する小説家。
横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表的作家として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』などが有名で、死や流転のうちに「日本の美」を表現する。
1899年大阪市北区此花町に生れる。幼くして両親を亡くし、祖父祖母に育てられる。しかし、小学生の時に祖母を亡くし、中学生の時に祖父を亡くし、黒田家に引き取られる。
作家を志したのは中学2年生の時で、1916年から『京阪新報』に小作品、『文章世界』に短歌を投稿するようになった。
1920年に東京大学文学部に入学。1921年、『新思潮』を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛らに評価され、1923年(大正12年)に創刊された『文藝春秋』の同人となった。1924年卒業し、横光利一ら14人と同人雑誌『文藝時代』を創刊。同誌には「伊豆の踊子」などを発表した。『雪国』『禽獣』などの作品を発表し、1937年『雪国』で文芸懇話会賞を受賞。1944年(昭和19年)『故園』『夕日』などにより菊池寛賞を受賞。
その後、日本ペンクラブ会長を就任などを得て、1968年10月に、「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して」ノーベル文学賞受賞が決定した。
2010年代に公表された選考資料によると、1961年に最初に候補者となってから7年かかっての受賞だった。
12月のストックホルムでの授賞式には、燕尾服ではなく、文化勲章を掛け紋付羽織袴で臨んだ。記念講演「美しい日本の私―その序説」を行った。
1972年4月死去。自殺とも他殺とも言われている。享年72歳。
美しい日本の私―その序説
日本人として初のノーベル文学賞を授与された川端康成が、12月12日にストックホルムのスウェーデン・アカデミーで行われた授賞記念講演において演説した芸術観・文化論。世界に向かい、広く日本の古典文学・芸術を紹介し、その根底をなす伝統的な日本人の心性や思想の特質、西欧と異なる死生観などを説いた日本文化論であると同時に、現代の日本文学者・川端自身にも、その伝統が脈々と受け継がれていることを宣言した記念碑的な作品である。
坂本龍馬を英雄にした男
日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。
筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。
司馬遼太郎は終戦後、2社経由後産経新聞社に入る。
産経新聞社に入社の際、大阪外国語学校卒業だった為、「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。
同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。
いくつか作品を出した後、「梟の城」で第42回直木賞を受賞し、翌年産経新聞を退職して、作家生活に入る。
初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』など時代・伝奇小説が多い。だが、1962年より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年より『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。1981年に日本芸術院会員、1991年には文化功労者となり、1993年に文化勲章を受章した。
司馬の作品はベストセラー且ロングセラーとなり、又多くが映像化された。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、西郷隆盛、福澤諭吉らは多くの作品に重複して登場しており、現代の日本人が彼らに対して持つ人物イメージは司馬の小説に大きく影響を受けている。坂本龍馬は元々幕末の志士として著名であったが、現在の坂本龍馬のイメージを作り上げたのは間違いなく司馬遼太郎であると言われている。
新幹線を作った男
昭和初期から中期にかけて活躍した大阪府出身の鉄道技術者。新幹線計画の実現において「十河 信二(そごう しんじ)」や「大石 重成(おおいし しげなり)」と共に大きな貢献を残したことで知られる人物であり、「デコイチ(デゴイチ)」のあだ名で親しまれている。
貨物用蒸気機関車D51形の設計に関与した他、国鉄退職後には、宇宙開発事業団でロケット開発にも携わっている。父は同じく鉄道技術者の「島 安次郎(しま
やすじろう/1870-1946)」。
世界の鉄道を救った
日本の東海道新幹線は、世界の鉄道を斜陽の危機から救い出した。鉄道全盛の時代に代わって、自動車と飛行機の時代が到来すると誰もが信じていたときに、距離数百キロの大都市間を、飛行機のように速く、通勤電車のような過密ダイヤで結ぶ鉄道がありうるということを、事実をもって証明したからである。
第4代国鉄総裁の十河信二が新幹線の最大の功労者であるのは間違いないが、島秀雄の設計ビジョンとリーダーシップがなければ、世界の鉄道は廃れきっていた可能性は高い。
東海道新幹線は、システムとして断然新しかった。
車内信号システム、自動列車制御装置(ATC)、踏切のない全線閉鎖軌道などなどが新しく導入されたが、なかでも画期的であったのが、列車の駆動方式である。
これを島秀雄は「ムカデ式」と呼んだ。
要するに、小型の動力(M=モーター)をムカデのように各車両の台車に分散させるのである。
これにより、大型の牽引機関車が不要で、車両を軽くできるようになった。したがって軌道、橋梁などの建設費も安くあがり、故障にも強い。モーターに不調が出ても他のモーターで補いあうことができる。加減速性能にもすぐれ、機敏な折り返し運転が可能で、通勤列車並みの稠密(ちゅうみつ)ダイヤが組める。効率的な電力回生が可能である。
島秀雄の独創的な発想である。
1969年に日本人として初めてジェームズ・ワット賞(ジェイムズ・ワット国際メダル)を受賞した他、1994年に鉄道関係者として初めて文化勲章を受賞している。
開発に携わった主な車両(蒸気機関車・電車・気動車等)に「C53〜55形」「C11〜12形」「D51形」「C62形」「63系電車」「80系電車」「151系電車」「新幹線0系電車」「キハ41000形」「キハ43000系」などがある。
島秀雄の名言1
「出来ない」と言うより、「出来る」と言う方がやさしい。
何故なら「出来ない」と言うためには、何千何百とある方法論の全てを「出来ない」と証明しなければならない。
しかし、「出来る」と言うためには、数々ある方法の中からたった一つだけ「出来る」と証明すればいいからである。
島秀雄の名言2
新幹線は事故を起こしません。そのように作りましたから。
島秀雄の名言3
スターを作らず、スターにならず。
マンガの神様
日本の漫画家、アニメーター、アニメーション監督。 医学博士。
戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、現代にまでにつながる日本の漫画表現の基礎を作った。
大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。
1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。
1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。
1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。
1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。
1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。同年11月、中国上海でのアニメーションフェスティバル終了後に倒れ、帰国と同時に半蔵門病院に入院。医師の診断ではスキルス性胃癌であった(しかし当時の日本の医療の慣習により、直接本人にはそのことは告知されなかった)。100歳まで描き続けたいと言っていた手塚治虫は、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。
同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという。
息子である手塚眞は昏睡が覚めると鉛筆を握らせるが意識がなくなりの繰り返しだったと語る。死に際の状態でも「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心を無くさなかった。
手塚の死に立ち会った松谷孝征によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。
トキワ壮
手塚治虫は1953年に東京都豊島区南長崎三丁目16番6号にあったトキワ壮に入居した。他に寺田ヒロオ、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、鈴木伸一、森安なおや、よこたとくお、石森章太郎、赤塚不二夫、山内ジョージ、水野英子などが住んでいた伝説的なアパート。「マンガ壮」というニックネームまで付けられた。
手塚作品に影響を受けて漫画家になった人たち
ほとんどが手塚治虫の「新宝島」を読んで感銘を受けている。
藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、ちばてつや、横山光輝、松本零士、永井豪、さいとう・たかを、水野英子、望月三起也、楳図かずお、中沢啓治、古谷三敏、辰巳ヨシヒロ、萩尾望都などである。
藤子不二雄は特につながりが深く、はじめ「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」名義にして漫画を書いている。手塚はお金のない二人のために敷金の肩代わりと、漫画を描くための机を残している。手塚治虫のアシスタントもしている。
石ノ森章太郎も手塚治虫に影響を受け、中学時代にファンレターを出した所、さらに分厚い封筒の返事が届き、ますますファンになったという。その後手塚治虫のアシスタントを得て、手塚治虫の紹介で漫画家としてデビューしている。
赤塚不二夫、松本零士、寺沢武一も手塚治虫のアシスタントをしていたことがある。逆に、宮崎駿は漫画家を目指していたが、手塚治虫の亜流に見られることを嫌いアニメーターになっている。
裕福な身でありながら庶民の為に立ち上がった。
江戸後期の陽明学者で大塩の乱の首謀者。父は大阪町奉行所与力(よりき)で大塩家は禄高200石の裕福な旗本だった。
1818年に自身も与力になる。「与力」は今で言う警察機構の中堅である。署長が奉行で、与力は部下の「同心」たちを指揮している。翌年には吟味役(裁判官)となり、裁定に鋭い手腕を発揮した。大塩は20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学の基本精神“良いと知りながら実行しなければ本当の知識ではない”を実践していく。
大塩が吟味役となって驚いたのは、奉行所がとてつもなく腐敗していたことだった。賄賂などで罪が軽くなるなど腐敗しきっていた。その奉行所の中でも、一番の大悪党が弓削という与力だった。弓削が組織していたシンジゲートを内部告発などで壊滅させると3千両という莫大な金銭を貧民への施し金とした。幕府高級官僚が不正に関わっていたがもみ消された為、息子に職を譲り引退した。
1833年に「天保の大飢饉」の大飢饉が起こる。凶作は3年も続き餓死者が20から30万人に達する。1836年、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となり、大塩は時の町奉行・跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)に蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせるなど、米価安定のためのさまざまな献策を行った。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門
(9代)に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけたという。善右衛門が跡部に相談した結果「断れ」と命令されたため、これも実現しなかったとされる。それどころか跡部は幕府への機嫌取りの為、大阪の米を江戸に送り続けた。
大塩平八郎の乱
米価高で甲斐国の「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出る中、大塩は9月にはすでに、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。
跡部良弼に対する献策が却下された後、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考え、1837年3月25日に門人、民衆と共に蜂起する。
しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧された。
大塩自身は約40日間逃走した後、市内靱油掛町の民家に潜伏しているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放つと火薬を撒いて爆死した。享年44歳。
幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ、反乱の実態を隠し「不届き者の放火騒ぎ」と封印しようとした。しかし、大塩が1ヶ月以上も逃亡したことで、広範囲に手配せざるを得なくなり、乱のことは短期間に全国へ知れ渡った。
乱から2ヵ月後、広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、翌月には越後柏崎で国学者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱)、さらにその翌月には大阪北西部で山田屋大助ら2千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こした。この様な大塩に共鳴した者の一揆や反乱がしばらく続いた。
これらの事件は徳川政権を大きく揺さぶり、幕府の権威が地に落ちていることを全国に知らしめた。
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