百舌鳥古墳

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百舌鳥古墳群

堺市にある古墳の集まり。巨大な前方後円墳を擁する古墳群として知られる。4世紀末ないし5世紀初頭から6世紀後半頃に築造された古墳が分布する。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)が有名。かつて100以上の古墳が存在したとされるが、現存しているのは47基である。堺市北西部に位置し、古代の海岸線に近い上町台地に続く台地上に築かれている。古墳は東西、南北ともそれぞれ約4キロメートルの範囲に分布。 古墳は、前方部が南向きに築造されている百舌鳥耳原南陵、田出井山古墳などと百済川の谷の両岸に築造された土師ニサンザイ古墳、いたすけ古墳、百舌鳥御廟山古墳の二つの古墳群から構成されている。

仁徳天皇陵

墳丘長は日本最大で、墓域面積は世界最大の古墳。5世紀前半から半ばに築造されたものと考えられている。

百舌鳥耳原南陵

大きさは全長約360メートル、後円部径205メートル、高さ約25メートル、前方部幅約237メートル、高さ約23メートルで、日本で3番目の大きさの古墳。仁徳天皇の第一皇子の履中天皇の古墳とされている。

田出井山古墳

「百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)」として第18代反正天皇の陵に治定されている。全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15mで、百舌鳥古墳群の中では7番目の大きさである。

御廟山古墳

全長約200m、後円部径約95m、高さ約17m、前方部幅約119m、高さ約17mで、百舌鳥古墳群では4番目の大きさである。「百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:第15代応神天皇)として陵墓参考地に治定されている。

古市古墳群

羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古墳群で、4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に築造された。東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、誉田御廟山古墳(伝応神陵)など墳丘長200メートル以上の大型前方後円墳6基を含む、123基(現存87基)の古墳で構成されている。北部の仲津山古墳(伝仲津姫陵)などの古い古墳群と南方の前ノ山古墳(白鳥陵)を中心とする前方部の著しく発達した西向きの新しい一群とに分けられる。

誉田御廟山古墳

曳野市にある前方後円墳。古市古墳群の中心となる古墳で、約420メートルという墳丘長は百舌鳥古墳群の大仙陵古墳に次ぐ全国2位の規模。「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。

仲ツ山古墳

藤井寺市にある前方後円墳。。全長約290メートル、後円部径約170メートル、高さ約26.2メートル、前方部幅約193メートル、高さ23.2メートルで、古市古墳群で2番目、全国でも10番目の大きさを誇る。仲津媛(応神天皇の皇后)の陵墓に治定されている。

市ノ山古墳

藤井寺市にある前方後円墳。墳丘長は227メートルで全国20位。前方部の高さ23.3メートル、後円部の高さ22.3メートル。允恭天皇陵とも。「惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)」として第19代允恭天皇の陵に治定されている。

土師氏(はじうじ)

古墳造営の一族

奈良の古代豪族だった土師氏は技術に長じ、4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれ、古墳時代の中期を代表する古墳群、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。奈良、三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついた。道明寺は土師氏の氏寺である。

野見宿禰

相撲の始祖、相撲の神様と言われる。殉死者の代用品である埴輪を発明し、仁徳天皇より土師氏の姓を賜った。土師氏の始祖。元々は出雲国(島根県東部)出身で、大和の石材を取り扱っていた当麻氏の力自慢の当麻蹴速という人物と相撲をとり、それに勝つことによって石材を供給支配権が野見宿祢に移った。当時、出雲国は日本に置いて先進国であった為、埴輪を作る技術者も出雲国から呼び寄せている。

五条家

土師氏の中には、姓を菅原に改めた氏があり、その菅原氏から公家の五条家が出る。鎌倉時代以来相撲の司家として君臨してきた。1911年に相撲の司家として争ってきた吉田司家に完全に争いに敗れ、相撲界との縁から遠ざかり、以後、相撲界における五条家の消息は不明となった。

世界遺産登録

2008年に百舌鳥古墳群と古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加された。宮内庁管轄の天皇陵が数基含まれているため、世界遺産の登録が難航している。


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