今城塚古墳

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今城塚古墳

高槻市にある古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳。墳丘の長さ190メートル、二重の濠がめぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっている。6世紀前半に没した継体天皇とするのが学界の定説になっているが、宮内庁は茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。

継体天皇

在位はAD507年からAD531年の日本の第26代天皇。継体大王を知ることができる書物は少なく、『古事記』『日本書紀』『上宮記』の三書のみでそれ以外は伝承や考古学的な資料のみである。武烈(ぶれつ)天皇の姉との子どもは、後に第29代欽明天皇となった。25代武烈天皇に子どもがいなかった為に、15代応神天皇の5世代後の子孫である継体天皇が選ばれた。

継体天皇初代説

第25代天皇である武烈天皇が子供がいないまま崩御した為、5世代溯った第15代天皇応神天皇の息子である稚惇毛二皇子の4代下の継体天皇が後を継ぎ、第26代天皇になります。この応神天皇から継体天皇の父である彦主人王までの4代が日本書紀から抜けています。正確に言うと、抜けている訳ではなく、『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が「記紀」では、分からなくなっています。それと、継体天皇が大和国に入って都を定めるのに20年かかっていることから、天皇家の血筋は一度ここで途切れているのではないかと言う説です。つまり今の天皇家は継体天皇を初代とした系譜で、初代神武天皇からの系譜は25代武烈天皇までで終わっているということです。

これは戦後、日本の自虐史観の一環である可能性が高い。

継体天皇が迎えられるまで

第25代武烈(ぶれつ)天皇が、子供がいないまま崩御された事にはじまります。候補者を探したところ、越前(福井県)に第15代・応神天皇の5世の孫にあたる男大迹王(継体天皇)という人物が浮上します。継体天皇はすでに58歳と言う高齢であったことや、「自分は天子の才能がなく、力不足やと思う」と、皇位につく事を辞退します。群臣が頼みに頼み込んで即位して頂きます。

継体天皇は初代ではない?

「記紀」では、応神天皇から継体天皇の父である彦主人王までの4代が日本書紀から抜けています。しかし、「記紀」より前に書かれた「上宮記」には載っていたので、系図は明らかになっています。その「上宮記」は鎌倉時代後期に散逸し、『釈日本紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』に逸文が残っています。

万世一系という世界に誇る系図と言う概念がない鎌倉時代に、2つの書物に応神天皇から彦主人王までの系図が載っていること、また、継体天皇は一度天皇即位を断っていることからも、系図をごまかしてまで天皇に即位したとは考えにくい。以上の二つのことからも、継体天皇は応神天皇の5世代後の子孫であると考えられます。

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